粗漫を免れない。この書の中で人を誤る説は、書を學ぶの法として、何でも多く碑刻を購ひ、手當り次第に澤山見て居ると云ふと、何時か知らぬ其の澤山のものゝ味が自分の手に傳はつて來て、さうして一種の自分の字が出來ると云ふことを主張して居る。併し是は即ち率意に書を作る方の最も極端なるものであつて、斯う云ふ率意の法と云ふものは、率意の説を出した所の董其昌に聞かせても恐らくは驚く所のものであらうと思ふ。それで康有爲の書を見ると、矢張り其の法の結果が現れて居つて、何處かに其の天才の面白味があるけれども、六朝とも何とも附かない字である。沈子培に古代にそんな隅の圓い字がないと言つて冷かされたと自ら白状して居るが、沈子培の眼からは田舍もの扱ひにされたものと見える。康有爲が近代で最も感服して居るのは※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]完白、是れは勿論包世臣からして既に酷く感服して、此の人を世の中に紹介したのは最も包世臣の力であると言つて宜しいが、康有爲も之を貴んで居る。又今一人は張廉卿である。※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]完白の書は篆隷に於て一種の得る所があるけれども、楷行其外の書に於ては、篆隷の法を以て妄りに應用するに過ぎぬ。張廉卿の楷書に至つては、最も石刻の惡癖を學んだもので、殆ど筆で書いたといふ神味は更にない。それを康有爲が最も推尊して居る。康有爲の書論は阮元などよりは偏頗でないけれども、作意派の書の趣味をば全く度外視したものといふことを知らねばならぬ。
 此の間に一人の違つた派と云つて宜い人がある。夫は楊守敬であつて、是は北派の書を日本に傳へた點に於ては非常に關係があつたもので、巖谷、日下部以下日本の北派と云ふものは、殆ど此の人によつて開かれたと言つて宜しい。併し此の人に就て日本人は考へ誤りがある。此の人を日本人は北派の書家だと思つて居るけれども、それは誤りである。元來此の人が日本の書家に傳へた執筆法は即ち張得天の法である。張得天は康有爲が所謂帖學家の親玉で、北派の書に何等の關係もないものである。一體張得天の執筆法は、日本では北派に全く附屬したものと考へられるが、北派の書を支那で廣めた所の包世臣は、張得天の執筆とは全く異つた執筆法を主張して居る。さうして楊守敬は執筆法に於て包世臣を祖述しないで、張得天を祖述して居る。それから楊守敬は碑のことをも研究して居ることは勿論であるけれども、帖の研究も決して粗略にしない。それで自ら書く所の字は決して北朝の書ではない。殊に日本に來てからして、日本に殘つて居る所の唐代の眞蹟と云ふものを見た。是が此の人の書に大變に影響を來して、日本へ來てから以後の書と云ふものは殆ど一變して、努めて眞蹟の筆意を取つて居る。併し其處には一種の見識を自分で持つて居つて、執筆の法は張得天の法を堅く守り、眞蹟の筆意を取るけれども、それを作意に依つて出さずして、率意に依つて之を出すことを務めて居る。それが即ち此の人の特色であつて、今支那に於ても此の人の書は殆ど第一流であるが、其の淵源する所は寧ろ日本傳來の眞蹟にあるのである。恐らくはかういふ書は支那に於て亦一の紀元を作るかも知れない。元來が北派の起る時に當つて、支那に若し日本の如く多數の唐代若くは六朝の眞跡があつたならば、支那人は何を苦しんで北派の粗拙なる字を學ぶべき。唯支那には其の時に古い眞跡がなかつたから、眞跡を下ること一等だからと言ふので碑を學ぶことになり、唐碑は昔流行り過ぎて皆磨滅し、覆刻ばかりだからといふので、六朝碑を稽古すると云ふやうになつたのである。それで日本に來て唐の眞蹟を見ることが出來、又近頃のやうに支那の敦煌其の他西域地方からして多くの眞跡が發掘されると云ふことになつて、之を見ることが容易になつて來ると、元來は書に就ては天稟の技倆のある支那人は、必ず石刻を差措いて眞跡に赴くと云ふことが當然である。將來は必ず眞跡によつて書の一變を來すであらうと思はれる。それも澤山の眞跡が表はれて來た結果として、六朝と云ふものも必ずしも尚ぶに足らぬこと、唐代の書と云ふものゝ矢張り最も上品な工妙な域に達したと云ふことを悟り得たならば、必ず其の方面に向つて進むことは明かである。自分は斷言しても宜しい、將來は必ず支那人の書と云ふものは眞跡に向つて研究を始める。さうして兎に角其の端緒を開いたものは即ち楊守敬であると言つても宜しい。日本などで現今遲れ走せに支那の北派の書をかつぎ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて居るものなどは甚だ氣が知れぬ。日本には石刻以上の眞跡と云ふものが非常に澤山あつて、それ等は皆假令上手、下手に拘らず、當時の筆意をあり/\と傳へてあるものである。なに寫經生の書だなどゝいふ高論もあるけれども、唐代には書が盛んで、寫生までが能書で、後世の及ぶ所でないとは支那人の定論である。さうして又日本にはそれに對して既に注意した大家例へば貫名などの如き人もある。勿論今日以後は貫名流で以て古來の筆意を盡すと云ふことは考へもので、此の研究には又更に一變を要することは明かであるけれども、兎に角さう云ふ風に正しい方向に向つて來て居つたのを、一時己れ等の見識のない所からして誤つた方向に迷入つたと云ふのは、甚だ恥づべきことである。況や近頃のやうに、俳句などをヒネくるものが、文盲の癖に、北派にも何にもならないエタイの知れない字を書いたり、看板やコマを書く一種の俗筆を北派だとして居るに至つては、殆んど採るに足らないものである。幸ひに大阪の觀鵞會などゝ云ふ書法を奬勵する會が年々開かるゝに就ては、どうかその進歩の傾を正しい方に向けて、さうして何時までも支那人の尻馬にばかり乘るやうな不見識をせぬやうにしたいものである。
[#地から1字上げ](明治四十四年三月二十六日「大阪朝日新聞」)



底本:「内藤湖南全集 第八卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年8月20日初版第1刷発行
   1976(昭和51)年10月10日初版第2刷
底本の親本:「東洋文化史研究」弘文堂
   1936(昭和11)年4月初版発行
初出:「大阪朝日新聞」
   1911(明治44)年3月26日
入力:はまなかひとし
校正:土屋隆
2004年11月4日作成
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