派と云ふ者は、單に南方の工妙な書がまだ入らない以前、田舍者が書いて居つた下手な書と云ふべきものに過ぎない。
 包世臣は書のことには精苦に思ひを費した人であつて、其論書を讀むと、極めて綿密に研究をした事が分る。此人は北朝の書を喜んでは居るけれども、必ずしも北派を主張して南派を退けると云ふのでない、寧ろ唐人の書に對して南北を合した六朝人の書を主張すると云ふに過ぎない。併しこれにも實は根柢の誤りがあらうと思はれる。全體から言へば支那の書と云ふものは隋から初唐に至つて工妙の極に達したものであつて、其以前は王羲之父子などのやうな、其一派並に其傳統を受けた人などは勿論立派な字を書いて居つたに相違ないけれども、一般の書風はまだ極めて幼稚であつて、迚も唐代に及ぶものではなかつたと云ふことは、矢張り近年の發掘に依つて證明される。近年の發掘に依ると、六朝時代の書、勿論發掘は重に北方に行はれるからでもあるが、兎に角六朝時代の書と云ふものは、粗朴の點は勿論あるけれども、其の拙劣なことも亦蔽ふべからざるものであつて、之を同時に土から出る所の唐人の書に比べて見ると、其の工妙其の品位に於て遙に下るものである。是が包世臣の考へ及ばなかつた所である。
 康有爲の廣藝舟雙楫も、阮元に比べては大に南碑を寶重することに注意して居る。北派といふよりはやはり包世臣と同樣、六朝派と云ふべきもので、南帖の眞蹟が見られないから、南碑、南碑が少いから北碑を尊ぶのである。尤も此人の書學は決して深いものではない。唯一種の天才で變つた見樣をしたのであつて、其の議論は覇氣があつて極めて面白いけれども、併し其の實際の心得に於ては甚だ淺いやうである。其の碑に對する品評などに於ても、多く奇僻なものを採つて、莊重な端嚴なものは採らない傾がある。此の人は廣東の生れであつて、長く田舍に居つて餘り精良な碑帖などを見る機會がなかつたのが、北京へ出て僅かの日月の間に、琉璃廠あたりの店で、拓の精粗を問はず、手當り次第に多くの碑を見て、極めて大綱に渉る判斷を下したのである。書の神味を知つて、的實な論斷をするだけの素養も出來て居らなかつたらしい。但其文辭が極めて工妙に出來てあるので、動もすれば人が其文辭に迷はされて、其論旨まで買被るけれども、其の造詣は疑ふべき者である。康有爲が自ら書く所の字も、此の書論と同樣の趣があつて、一種の奇氣があるけれども、粗漫を免れない。この書の中で人を誤る説は、書を學ぶの法として、何でも多く碑刻を購ひ、手當り次第に澤山見て居ると云ふと、何時か知らぬ其の澤山のものゝ味が自分の手に傳はつて來て、さうして一種の自分の字が出來ると云ふことを主張して居る。併し是は即ち率意に書を作る方の最も極端なるものであつて、斯う云ふ率意の法と云ふものは、率意の説を出した所の董其昌に聞かせても恐らくは驚く所のものであらうと思ふ。それで康有爲の書を見ると、矢張り其の法の結果が現れて居つて、何處かに其の天才の面白味があるけれども、六朝とも何とも附かない字である。沈子培に古代にそんな隅の圓い字がないと言つて冷かされたと自ら白状して居るが、沈子培の眼からは田舍もの扱ひにされたものと見える。康有爲が近代で最も感服して居るのは※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]完白、是れは勿論包世臣からして既に酷く感服して、此の人を世の中に紹介したのは最も包世臣の力であると言つて宜しいが、康有爲も之を貴んで居る。又今一人は張廉卿である。※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]完白の書は篆隷に於て一種の得る所があるけれども、楷行其外の書に於ては、篆隷の法を以て妄りに應用するに過ぎぬ。張廉卿の楷書に至つては、最も石刻の惡癖を學んだもので、殆ど筆で書いたといふ神味は更にない。それを康有爲が最も推尊して居る。康有爲の書論は阮元などよりは偏頗でないけれども、作意派の書の趣味をば全く度外視したものといふことを知らねばならぬ。
 此の間に一人の違つた派と云つて宜い人がある。夫は楊守敬であつて、是は北派の書を日本に傳へた點に於ては非常に關係があつたもので、巖谷、日下部以下日本の北派と云ふものは、殆ど此の人によつて開かれたと言つて宜しい。併し此の人に就て日本人は考へ誤りがある。此の人を日本人は北派の書家だと思つて居るけれども、それは誤りである。元來此の人が日本の書家に傳へた執筆法は即ち張得天の法である。張得天は康有爲が所謂帖學家の親玉で、北派の書に何等の關係もないものである。一體張得天の執筆法は、日本では北派に全く附屬したものと考へられるが、北派の書を支那で廣めた所の包世臣は、張得天の執筆とは全く異つた執筆法を主張して居る。さうして楊守敬は執筆法に於て包世臣を祖述しないで、張得天を祖述して居る。それから楊守敬は碑のことをも研究して居
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