多くは無くなつて、李善註、五臣註だけが殘つた。所が集註には今殘らない所の此れ等多くの註釋を引用して居るのである。文選集註は天歴頃のものであるが、支那の著述目録は勿論、當時日本にある支那書籍の總目録たる日本國現在書目にも、其の名は見えないからして、確かに日本人の作つたものであらう。之はやはり編纂物とはいへ中々の大著である。今は明らかに知れて居る分が二十卷ばかり殘つて居る。
 支那には歴代の正史に大抵藝文志とか經籍志とか其時代の書籍目録があつて、此れに依て或る時代にどんな書物が有つたかと云ふことを知ることが出來るのであるが、唐代の書物を知るには先づ隋書經籍志、新唐書藝文志、舊唐書經籍志に依る外は無い。所が唐代と云つても中々長い間であつて、隋書經籍志と新唐書藝文志との間には、大分永い年數がたつて居るのであるが、丁度日本で出來た日本國現在書目と云ふのが其の中間に在るので、此れに依て隋書經籍志、新舊唐書藝文志に見えない唐代の書籍を知り得るのである。此書目の由來は、弘仁の頃からあつた冷然院といふ藏書の處が燒けたので――此時冷然の然の字が火に從ふので燒けたといつて冷泉院といふ水に從ふ字に改めた――其の後復た書籍を集めた時、今度集めた藏書目録を作つて置く必要があると云ふので作つたのが此の日本國現在書目で、宇多天皇の寛平頃に出來たものらしい。此書目は支那の目録學家にも大に珍重されたものである。又舊の冷然院の藏書中今日に至るまで燒けずに殘つて居るものゝ中に、文館詞林と云ふ書がある。此の書は唐の初めに編纂され、一千卷の大部のものであつたが、宋の初め頃から既に失せて仕舞つた。今から百餘年前、大學頭林述齋がその中四卷を出版し、佚存叢書中に收めて支那に渡し、支那の學者を驚かした事がある。殘つて居る分が全部三十卷ばかりで、高野山にあるものが原本の大部分である。
 最後に漢文學の國文、國語に對する影響に就て述べよう。先づ日記類でいふと、元來日記は漢文で書くものと定つて居つたが、紀貫之が之を眞似てから土佐日記等の國文日記が現れた。又紀貫之の古今集序は元と其の姪淑望が漢文で書いたのを貫之が國文に直したものが國文の初めとなつたのである。斯く國文は漢文の趣向から發達して來たものであるが、此れ等は何人も知つて居る所であるから今は略してもつと外の事を述べて見よう。又國語に關することであるが、日本の五十音は梵語學の影響を受けて發達して來たものであつて、弘法大師よりは後に出來たものである。吉備大臣の作つたものとする説があるけれども、其の頃、日本で梵語を知つて居る筈は無いから其の説は誤りである。一體支那の音韻學も、日本の語學も、梵語學から影響を受けた事が頗る大であつて、支那では字母の事が唐の時分から大分やかましくなり、三十六字母を作り、口の開合によつて此れを四十一に分つたが、支那の三十六字母の列べ方も、日本の五十音の排列の仕方も全く同樣であつて、共に梵語學から影響を受けた事を知るのである。此の支那の三十六字母は韻鏡の基となつたものであつて、音韻學は勿論支那自身に於ても漸次に發達して來ては居つたが、梵語學が入つてから、初めて明確になつたので、日本も同樣である。日本の五十音は支那へ行つて、梵語なり、梵語の影響によつて明確となつた支那音を研究した人によつて作られたので、斯樣に研究せられて、非常に明確になつた音を日本人が學んだから、日本の音も次第に明確になつて來たのである。それに就きて自分は嘗て某博士の陸奧の國名に關する意見を批評したことがある。某博士は陸奧を「ムツ」と訓むのは、元來「ミチノオク」といはれたのを東北音の訛り[#「訛り」に白丸傍点]で、「ムツノオク」と發音せられ、更に「ムツ」と略されるやうになつたとの意見であつたのに對し、自分は東北人のみならず、古代に於ては近畿地方にても「ムツノオク」と發音したのである。近江國の竹生島は今「チクブシマ」と發音するが、延喜式の神名帳によれば都久夫須麻《ツクブスマノ》神社とある。又信州に千曲川といふ大河があつて、今「チクマ」川と呼ぶが、古へはかの地の郡名を筑摩《ツカマノ》郡といふから、チ[#「チ」に白丸傍点]の音でなくツ[#「ツ」に白丸傍点]の音である、筑紫をツクシと讀むなども思ひ合はすべきである。つまる所古代はイ[#「イ」に白丸傍点]列とウ[#「ウ」に白丸傍点]列との音に明白な區別がなかつたので、魚《ウヲ》をイヲともいひ、或る地方では上野《ウハノ》をイワノと發音するなど、皆其の例で、イ[#「イ」に白丸傍点]列からウ[#「ウ」に白丸傍点]列に訛つたのでもなく、ウ[#「ウ」に白丸傍点]列からイ[#「イ」に白丸傍点]列に訛つたのでもない。これはイ[#「イ」に白丸傍点]列とエ[#「エ」に白丸傍点]列とでも同樣の例があるので、上宮聖徳法王帝説に等已彌居加斯支移比彌乃彌己等《トヨミケカシキヤヒメノミコト》とあるのを見れば、彌の字はミ[#「ミ」に白丸傍点]にもメ[#「メ」に白丸傍点]にもなるので、其の區別が判然しなかつたことが分る。今日關東以北の人が、活用言のヒとヘとをよく誤り、石をエシと發音するなど其遺習である。甚しきは有りといふ活用言のリとルとが通常前者が終止言で、後者が連體言となつて居るのを、古代にはリを連體言とした例が、吉澤博士の研究せられた大唐玄奘三藏表啓の中に「恩ヲ冒セリコトニ」云々とあるので知られる。舊式の國語學者は、よく五音相通といふことで此樣の問題を解決して居るが、五音相通といへば、五音が各々獨立して成立つて居りながら、相通ずる變則があるやうに聞え、所謂訛[#「訛」に白丸傍点]りといふ原則を插む餘地があるが、自分は寧ろ古音に五音の區別が明確でなかつた爲であると解釋したい。支那の音韻學に重要なる新研究を成した顧炎武は、やはりかやうな場合に一種の原則を立てゝ、古人韻緩、不煩改字、と稱して居る。これは元來唐初の陸徳明の説に本づき、宋の呉才老などの叶音説、即ち日本でいへば、五音相通説から脱却して、古音が不明確であることを發明したのである。而して此の不明確な古音が、だん/″\明確になつたのは、五十音圖の如き者が出來た爲であつて、近畿其他の地方は其整理された五音によつて精確に發音するやうになつたが、東北地方などは依然として古音を保存して居つたのである。それ故奧州音は取りも直さず、今以て近畿地方人が古代に發した音をそのまゝ發して居る者と思へば間違ひないのである。處で此の五十音は果して梵語學から直接に國語を整理する爲に作られたか、或は其間に支那の音韻學の仲介を經て影響を來したかといふに、それは後者の方が事實であると考へられる。日本で古代梵語學の大家たる安然の悉曇藏などでも、いづれも梵語學の説明として支那の反切即ち九弄音紐といふやうなことを借用して居る。反音鈔などいふ書には此の關係を十分にあらはして居る。多分唐代に留學した日本僧が、彼邦で梵語學によつて支那の反切を整理し、三十六字母、開口、合口等のやり方、即ち後の韻鏡學の基礎が定められた状態を呑み込んで來て、其法を日本語學に適用したのであらう。して見れば正確な國語學の基礎たる五十音はやはり漢文學の影響に因て出來たものと言つて差支ないと思ふ。
[#地から1字上げ](大正九年八月史學地理學同攻會夏季講演會講演)



底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日発行
   1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月発行
初出:史學地理學同攻會夏季講演會講演
   1920(大正9)年8月
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年11月14日公開
2006年1月23日修正
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