の藏書とすることゝなり居れり。其の四通の内、一通は北京の文淵閣、一通は圓明園の文源閣、一通は熱河の文津閣、一通は奉天の文溯閣に收むることゝなり、大抵乾隆四十六七年までに完成したるものと思はる。其後乾隆五十五年頃までに更に江南の三閣に一部づゝ四庫全書を傳へたり。三閣とは、揚州の文宗閣、鎭江金山寺の文※[#「さんずい+(匚<隹)」、第4水準2−79−7]閣[#実際には「文宗閣」が「鎭江」に、「文※[#「さんずい+(匚<隹)」、第4水準2−79−7]閣」が「揚州」にあった。]、西湖の聖因寺の文瀾閣これなり。これ等は江南地方は文物の淵叢にして、書籍を見んと欲する者も多からんと思ひ、讀書人の便利のために備へしなり。かくして北方の四閣は天子閲覽の爲に、江南のものは一般公衆の觀覽に供することなるを以て、北方の悉く監生の寫字に成り、字體も大いに同一の體裁を具へて立派なるに反し、南方三閣のものは、筆耕に寫させ、製本亦粗なるの差あり、上述の七閣の内、圓明園の文源閣は、咸豐十一年(西暦一八六一)英佛同盟軍侵入の際に燒かれ、南方の三閣は、長髮賊亂に散亂せしが、其の中にて、杭州の文瀾閣のみは、其後散亂の書を集めて不足を補寫し、舊觀に復したるを以て、現在にては四閣の四庫全書存在する譯なり。北方の三閣の四庫全書は大凡竪一尺五部、横六寸五分程の製本にて、西洋風の假綴の體裁をなし、經、史、子、集により表紙の色を別ち、經部は緑色、史部は紅色、子部は水色、集部は薄鼠色なり。何れも薄き絹を用ひ、册數少なきは一部を一つの板挾みとし、多きものは幾通りにも分ちて板挾みとし、各板挾みには表紙と同色の絹の帶を以てこれを竪に締め、それを更に小箱の内に收め、この箱九箇を一棚の上に載す。その棚は四層もしくは六層にて、これを第一架、第二架等に分つ。たとへば、經部第一架、史部第一架などと呼び、これが檢索の便として、四庫全書分架圖四册を備ふ。此の書は書架の排列せられたる儘を圖して、各箱中に收まれる書名も亦位置を違へず記されたれば、何れの書が經若しくは史の第何架、第何層、第幾箱目にあるかは一目して瞭然たり。北方四閣中、自分の見たるは奉天文溯閣なるが、四閣とも構造は同一なるに相違なし。大體に於ては江南の三閣も亦同じ。此の構造は外部は六間の二層樓なれども、内部は三層に分たれ、下層に經部其の他、古今圖書集成、四庫全書考證等を納め、中層
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング