天皇の御名代といふ事に考へ合すべきは、崇神天皇の御名を紀に御間城入彦五十瓊殖天皇と申し奉ることなり。[#ここから割り注]記には御眞木入日子印惠命とあり[#ここで割り注終わり]此外にも孝昭天皇を紀に觀松彦香殖稻天皇[#ここから割り注]記には御眞津日子訶惠志泥命とあり[#ここで割り注終わり]と申し奉るも、并びに彌馬といへる地名と覺しきを冠したり。國造本紀には長國造の條に志賀[#(ノ)]高穴穗[#(ノ)]朝御世。觀松彦色止命九世孫韓背足尼定[#二]賜國造[#一]。とあり。此の長は阿波國那賀郡なるべきが上に、此國には又美馬郡といふもあり、神名帳には此國名方郡に御間都比古神社ありて、栗田氏は即ち觀松彦色止命を祀るとせり。又播磨風土記にも大三間津日子は即ち孝昭天皇ならんといへり。此等の種々のミマツヒコをいかにして歸一すべきかは、今の急とする所にあらざれども、其の何れも孝昭天皇に縁ありげに見ゆれば、彌馬升を此天皇の御名代、御名入部の類と解し、彌馬獲支を崇神天皇の御名代御名入部の類と解せんとす。上古に於いて族裔の榮えたる皇別の中にては、孝昭天皇の皇子天足彦國押人命の後、崇神天皇の皇子、豐城入彦命の後な
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