あらず、此れ余がかく定めたる理由なり。
南至[#二]邪馬壹國[#一]。水行十日。陸行一月。 邪馬壹[#「壹」に白丸傍点]は邪馬臺[#「臺」に白丸傍点]の訛なること言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆臺に作れり。本居氏は明らかに其地を指定せざれども、日向大隅地方と看做したるべし。鶴峯氏は邪馬臺は襲人の僭稱にて、おのれがをる處を皇都大和に擬して呼しものなり、今も琉球人は薩摩をさしてやまとゝいふなり、琉球の童謠にりゆうきうとやまとが地つるぎならば云々[#ここから割り注]地つるぎは地續をよこなまれるなり[#ここで割り注終わり]水行十日は、十日の上に二字を脱せるなりといへり。菅氏吉田氏の説も略之に同じくして詳なるを加へ、大隅國噌唹郡の中なる國府郷小川村の隼人城、清水郷姫木村姫木城あたりに擬し、星野恆氏、久米氏は之を筑紫國山門郡にあてたり。其陸行一月[#「月」に白丸傍点]とあるを一日[#「日」に白丸傍点]と改め讀むことは諸説皆一致せり。然るに此の陸行一月[#「月」に白丸傍点]の字は魏略及び三國志より出でたる梁書、北史を始め、太平御覽、册府元龜、通志、文獻通考等、一も一日[#「日」に白丸傍点]に作れる者なければ輕々しく古書を改めんことは從ひ難き所なり。鶴峰氏の水行十日を二十日とするは更に據なし。本居氏の説の如く、いつはりて魏の使を受つるなどは、菅氏も兒戲に等しとし、たとひ邊裔なればとて、有るべくも思はれずといへり。菅氏は當時、漢國にて倭と指しゝは、筑紫九國の地なれば、其を領きて威權ありし者を倭王とは稱へしなり、大和に天皇の坐しますことはもとより知らざりしさまなりといへり。然るに此説は邪馬臺が筑紫に在りしを證するには不十分なり。且つ日本紀によれば、意富加羅國王の子、都怒我阿羅斯等が日本國に聖皇ありと聞きて、歸化して穴門に到りし時、其國人伊都都比古、吾は是國の王なり、吾を除きて復二王なしといひしも、其の人と爲りを見て必ず王に非ざることを知れりといひ、後世に於ても、明の太祖が僧祖闡等を日本に遣はせし時、征西將軍に抑留せられたれども、猶ほ京都に持明天皇あることを知れるなどより推すに、魏國の使が親しく筑紫に來りて其の内亂にまで遭遇しながら、大和の皇室あることを耳にだもせざるは有り得べき事とも思はれず。琉球にてやまとゝいへる語も、大和朝廷の威力が九州に及びし後に交通して得たる者ならば、據るに
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