此には主として考證を要する字句のみを擧ぐべし。猶ほ事の次でに述ぶべきは、前號の發刊後、友人稻葉岩吉氏が宮内省圖書寮に藏せらるゝ宋槧本三國志を以て、余が録せる本文を校正し、其の異同を告げられしことなり。かの宋本は市野迷庵の舊藏にして、經籍訪古誌にも出でたる者なり。其異同は各々其字句の下に擧ぐべし。
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帶方  漢末公孫氏が遼東に據りたる時、置きたる郡名にして、魏が公孫氏を亡ぼせる後も、之に因りたり。本と樂浪郡の縣名なりしを陞せて郡としたるにて、樂浪の南、即ち今の韓國の忠清、全羅二道の間に當るべし。松下見林が帶方會稽郡名。今八※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]地方といへるは妄なり。
舊百餘國。漢時有[#二]朝見者[#一]。今使譯所[#レ]通三十國。  舊時を説くは前漢地理志に據り、今とは魚豢が魏略を作れる時を指すこと、已に前に言へり。史通に魏時京兆魚豢私撰[#二]魏略[#一]。事止[#二]明帝[#一]。とあれども、三國志に引く所の魏略の文は、正始嘉平の際に及ぶ者あれば、其の記する所、齊王芳の世を包括せること明らかなり。されば此に今といへるも、齊王芳の世を指せるか。菅氏が之を以て陳壽が自ら其時を指すとせるは、高句麗傳等の例を察せざる誤なり。
到[#二]其北岸狗邪韓國[#一]  同じ魏志の弁辰傳中に弁辰狗邪國あり、吉田東伍氏は之を韓史の伽耶、又駕洛、即ち今の金海に當てたり。日本紀にありては南加羅に當るべし。こゝに其の北岸といへるは倭國の北岸をいへるなり。後漢書に樂浪郡徼去[#二]其國[#一]萬二千里。去[#二]其西北界拘邪韓國[#一]七千餘里といへるも、二の其字は皆倭國を指せり。然るに菅政友氏は誤りて之を韓國を指せるものとして北岸といへるを疑へり。此誤は蓋し當時狗邪韓が已に倭國に服屬せることを思はざるに出づ。魏志の韓傳に云く、韓在[#二]帶方之南[#一]。東西以[#レ]海爲[#レ]限。南與[#レ]倭接と、又弁辰傳に其涜盧國與[#レ]倭接[#レ]界といへり。弁辰涜盧國は吉田氏之を今の陝川郡に當てたるはよし、然るに其の倭と接界すとあるをば、涜盧津として、別に東莱府多太浦に當て、二つの涜盧あるが如く説きしは牽強なり。涜盧は唯一にして古の大良州郡、日本紀の多羅なること疑ひなし。若し韓國内に倭の領土なくば東西南並に海に限らるべき理にし
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