割り注終わり]
四十三年。[#ここから割り注]魏志云。正始四年。倭王復遣[#二]使大夫伊聲耆掖耶等約八人[#一]上獻。[#ここで割り注終わり]
六十六年。[#ここから割り注]是年。晉武帝泰初二年。晉起居注云。武帝泰初二年十月。倭女王遣[#二]重譯[#一]貢獻。[#ここで割り注終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 此の記事にして日本紀作者の手に成りたらんには、卑彌呼を神功皇后なりと信じたりと斷ぜんに何の碍げかあらん。然るに近世の國學者の間には、此等の細注ある記事の大部分を、後人の※[#「手へん+纔−糸」、読みは「ざん」、255−9]入にかゝる者とする説ありて、頗る勢力あり。之を※[#「手へん+纔−糸」、読みは「ざん」、255−10]入とせる所以は、其の外國史書の文が國史に混ずることはあるまじき事なりといふ一種の尊王説に本づけること疑なきも、其の口實とする所は、古本に之なしといふに在り。されども此等の説も、近時田中勘兵衞氏の藏せる奈良朝の古寫本と思はるゝ應神紀斷簡出づるに及びて、大に其の信用を薄弱ならしめたり。應神紀五年船を造りて枯野と名づけたる條の細注、及び二十二年、「兄媛者吉備臣祖御友別之妹也」といへる細注は、書記集解に古本に無し、私記※[#「手へん+纔−糸」、読みは「ざん」、255−14]入せりとなせる者なるに、古寫本には之あり、此外にも集解に引ける古本の據るに足らざる證あれば、同じく集解が古本になしといへる神功紀の細注も、之を※[#「手へん+纔−糸」、読みは「ざん」、255−15]入なりと見るべき根據なし。特に六十六年の細注が晉起居注を引きたるは、尤も其の信ずべきを見る者にして、晉起居注は藤原佐世が日本國現在書目にも見え、古く我邦に流傳せること論なく、神功紀が唐太宗勅撰の晉書を引かずして、此の書を引きたるは、或は未だ晉書を見ざりしに由るならん。されば此の細注の古きことも隨て知らるべし。又日本紀が用ひたる韓國の地名が、往々三國志の三韓傳中に在る地名と符合することも注意せざるべからず。應神紀八年の細注に出でたる支侵《シシム》、同十六年の細注に出でたる爾林《ニリム》の如き、三國志馬韓の條にも支侵、兒林の國名あり。神功紀四十九年に出でたる古奚津は、同じく馬韓の條に出でたる古爰國なるべく、爰は奚の形似によりて訛れるなるべし。又同年に出でたる布彌支《ホムキ》、半古《ハムコ》
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