だから緯書の説はあつても、革命は畏るゝに足らない、又信ずるに足らない、今日より群疑を決して、法を將來に垂れんことを請ふと申して、辛酉革命の改元廢止論を唱へました。これは當時としては非常に突飛な議論で新しい考へであつたらうと思ひます、勿論これも宋學の思想が入つて居ります。併し當時即ち後醍醐天皇の時には其説が行はれないで、衆議に從はれてやはり改元になりました。それから甲子の時にも亦改元となり、其後も依然として辛酉革命、甲子革令は日本の歴史において行はれて居りましたが、ともかくも當時において斯ういふ新らしい學説を立てゝそれを言ひ出すといふことはよほど偉いことであります。實際まかり間違へば其當時の考へでは改元しなかつたために地震があつたとか、雨が多かつたとか、騷亂が起つたとか言ふやうな色々な苦情が起る、革命説を採らなかつたから斯ういふことが起つたのだといふ風に文句を言はれようといふやうな際において、ともかくもそんな迷信は役に立たんものだといふ説を出したといふことは、よほど面白いことであります。これは詰り當時後醍醐天皇が宋學、禪學をやられたといふ事の外に、一般の學問上においても革新の機運があつたといふことの一つの有力なる證據だと思ひます、私はこのことをよほど面白い現象だと思ひます。
 さういふ風に有ゆる方面に革新の機運があつて、從來の説を故なく信ずるといふ事はなくなつて來て居つたのであります。要するにこれは内部における革新の機運でありますが、内部にさういふ考があるとやはり外部に對しても自然さういふ考が起つて來るといふのは當然だらうと思ひます。所が丁度其頃に不思議にも外部においては蒙古襲來といふ一大事件が起つて居るのであります。蒙古襲來といふことは當時では非常な事でありまして、一國の存亡に關するやうな大變なことでありました。さうして龜山上皇が親から國家人民に代はられると言うて御祈願を遊ばされたやうな事もある位であります。近頃國史家の説では、此の御祈願は後宇多天皇がなされたのではないかといふことであるが、勿論それは後宇多天皇の御時代でありましたが、後宇多天皇は八歳で天子の位に即かれて、十二三年その位に居られたのですが、其間龜山上皇が實際の政治をやつて居られたのですから、御祈願の張本はやはり龜山上皇で入らせられたかも知れぬと思ひます。開闢以來の大事件たる蒙古襲來を防禦しようといふの
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