の文化に感化されたところの民族が新しく興つて、その古い文化を吸收して、自分の文化を形作つて行く、これが今日までの順序であります。
ところで問題は、東洋文化がこれで出來上つてしまつて、もはや東洋はこれで終を告げて、東洋民族は茲で全く役目を濟して滅亡してしまふ運命になつて、さうして此東洋文化を西洋人が吸收して、そこで西洋人が新しい文化を形作るか、或は東洋人が、今日西洋人が有つて居るところの文化を吸收して、さうして東洋と西洋との文化を、先刻某博士の御話もありましたやうでありますが、一つに融合して、自分の物にして民族が永續するかといふ二つの問題が起つて來ると思ひます。これは餘程むつかしい問題でありまして、滅多に豫言の出來る譯ではありませぬが、今日の現状で、自分の文化に滿足せずして、大に謙遜の態度であつて、他の文化を吸收する非常な熱心なる希望を持つて居る民族は、東洋民族か、西洋民族かと申しましたら、私は東洋民族がそれであると思ひます。西洋民族はどちらかと云ふと、自分の文化に食傷し、自分の文化に自負自尊心を有しすぎて、他の文化を吸收するところの能力を餘程減じて居りはしないかと思ふのでありますが、東洋民族は其點に於て、如何なる難解な、如何なる高尚な文化でも、どこまでも進んでそれを吸收して、さうして自分の文化と之を一緒にしてやつて行かうといふ大きな希望と決心とを有つて居るやうであります。さうなつて來ますと、こゝに東西文化融合の希望も達せられるのではないかと思ふのであります。是は豫言でありますから、中るか中らないか分りませぬ、併し現在は兎に角どちらかと申せばさういふやうな傾になつて居ると云ひ得ると思ふのであります。世界の最も完全なる文化を形作る爲には、自分で從來有つて居つた文化の價値を十分に認めて、さうして何處までも其長處を保持して、更に他の長處も十分取入れるといふことが必要であつて、自分の文化に心醉して、他の文化を全く排除するといふことは、決して最良の手段ではないと思ふのであります。以上私の考のほんの骨組だけを申上げました次第であります。
[#地から1字上げ](大正十年某月某處講演)
底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
1969(昭和44)年4月10日発行
1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
1930(昭
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