となるべき能力を自然に具へてゐるけれども、其れが眞の智識となる方式は、先進の年長者から教へられて初めて出來たと同じである。
 斯くの如くして、支那文化によつて日本文化が形成せられる時代は隨分長きに亙つてゐるので、政治上社會上其の進歩が徐々に完成して行つたのである。國民が或る他の文化を繼承しても、或る時代になると自覺を來すのが普通で、日本に限らず支那の附近にある後進民族は、例へば漢代の匈奴の如きも、支那文化の刺激によつて民族を形づくつた以上は、民族の獨立といふ自覺を生じた。即ち、漢の初めに於いて、既に匈奴は漢の皇帝に對して、自ら天の置くところ、日月の照す所、匈奴の大單于と云ふやうなことを唱へたのであつて、日本でも聖徳太子の時、初めて支那に對して、日出る處の天子と稱して對等の語を用ゐた。以上の如く國民の自覺は常に政治的に最も早く生ずるが、眞の文化的思想的に自覺を生ずるのは是より遙に遲れるのが常である。時としては自覺を生ぜずして終つた國もある、朝鮮の如きは夫れである。日本民族は流石に或る時代には思想的自覺を生じた。其れは自分の見る所では蒙古襲來が最大の動機を爲したので、南北朝から以後、極めて徐々に文化的思想的の自覺を生じつゝあつて、最近支那以外の文化並に思想を承け入れることになつてから、完全に支那に對して思想的に獨立したのである。しかし今日でも眞の日本文化が完全に形成せられてゐるや否やは頗る疑問であつて、思想の如きも、支那思想の拘束からは殆ど脱せんとしてゐるけれども、同時にまた西洋の思想の拘束を現に受けつゝある。文化の極度は藝術に於て著るしく現るゝものであるが、日本の繪畫に徴して之を見るも、古き支那繪畫の拘束は百年ばかり前から之を脱せんと努めたのであるが、縱し支那藝術の拘束を脱しても、其れが支那藝術と對抗する程の高い程度のものでなくして、單に支那藝術に地方色を加へたに過ぎないものであつては、眞に自覺し且つ獨立したものと云ひ難い。日本の寫生派の藝術の如きは、即ち其れである。しかも亦、最近に至つて其の藝術が動もすれば西洋畫の拘束に囚はれんとする傾きがあり、眞に日本の藝術の獨立は前途猶遼遠なる心地がする。尤も他國の文化の拘束を脱しないからとて、民族の生活を向上し、また其れを他の劣等な民族に感化を及ぼし、或は自己より先進の民族にさへも、却つて感化を及ぼすと云ふことは、絶無と云ふことはなく、時としては、其れを以て自己の民族の文化だと考へることあるも、其れは嚴密に云へば決して民族自發の文化とは云ひ難い。
 斯く歴史的に日本文化の由來を考へると甚だ心細い感がする。しかし、是はまだ民族の若い爲めであると考へ、將來眞に成熟期に入るのであると考へれば、前途の希望は、また大なるものあるとも云はれる。たゞ前述の如く民族は必ずしも幼少から老年まで順當に發達するとは限らない。苗にして秀でず、秀でゝ實らざる民族があるので、日本民族を斯かる不幸の運命に遭遇せしめず、順當なる發達を遂げしめ、世界の文化に貢獻すべき一大勢力となすのが我々の責任である。
[#地から1字上げ](大正十一年一月五日―七日「大阪朝日新聞」)



底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日発行
   1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月発行
初出:「大阪朝日新聞」大阪朝日新聞社
   1922(大正11)年1月5日〜7日
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年10月24日公開
2006年1月21日修正
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