本文化に就て説くところは猶多數の人々の理解し難く、且つ時としては大なる反感をもつところのものであるかも知れない。たゞ然し、近來一般の思想傾向として善いことは、學者の自由討究に對して、以前よりはいくらか寛大になつた點である。其れで日本の多數の人々の智識には信用を置かぬ自分も、自由討究の一端として、鄙見を披瀝して見ようと思ふ。
 何れの國にも、國民には所謂お國自慢があつて、其お國自慢の中にも、自國の文化が自發的であると云ふことが、餘程重きを爲してゐるのである。しかし、是は或る少數の古い國、埃及とか、支那とか、印度とかいふ者を除いては、理由なき謬想であつて、例へば、兒童が生れ落ちてから、漸次智慧が附いて來る年頃は、年長者から導かれ教へこまれることが、其の智識の基礎になることは明瞭なる事實であるが、其の兒童が成人した後、自己の智識の根本に就て自慢を有し、自己の智識は最初から他の智識を選擇するだけの識見を具へてゐて、年長先進者の智識を自己に同化し、以て今日の發達を來したと云ふことを主張したならば、何人も其の無稽なることを嘲笑せざるものはないであらう。個人間では、斯くの如き知れ切つた道理が、妙に國民間に於ては、道理に外れた解釋を下さうとする。日本文化の起原に於ても、恰度其れと同一の謬想が存在する。國史家始め多くの日本人は、今日でも動もすれば日本文化なるものの、最初からの存在を肯定し、外國文化を選擇し同化しつゝ今日の發達を來したと解釋せんと欲する傾きがある。此の謬想は隨分古くからあつて、國民的自覺が生ずると同時に、日本人は已に此の謬想に囚はれてゐたと云つても宜い。維新以前の日本文化起原論とも云ふべきものは、最後に此の立論の方法で殆ど確定せられてゐた。日本が支那文化を採つて、其れに依つて、進歩發達を來したと云ふことは大體に於て異論はない。尤も徳川氏の中頃から出た國學者達は之にさへも反對して、凡ゆる外國から採用したものは、總て日本固有のものよりも劣つた者であり、其れを採用したが爲めに、我國固有の文化を不純にし、我國民性を害毒したと解釋したものもあつた。今日では、其の種類の議論は何人も一種の負け惜しみとして之を採用しないが、しかし、自國文化が基礎になつて、初めから外國文化に對する選擇の識見を具へてゐたと云ふことだけは、なるべく之を維持したいといふ考が中々旺盛である。
 例へば茲に忠孝と
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