九州北部から瀬戸内に入り、或は又事に依ると四國の南方の海流に依つて紀伊に達し、一方は山陰を傳つて越前地方まで達し、それが然るべき港々から段々内地に入つて來て、例へば但馬邊から中國を横斷して瀬戸内に入るもあり、越前から近江を經て畿内に入るもあり、又美濃から東海に出るもあり、至るところ支那の文化を齎らせることが分明し、殊に今日で最も歴史上の疑問とせらるゝ銅鐸はやはり支那文化の傳來と重大なる關係を有するに違ひないが(此の事に就ては別に自分の意見を發表する機會あるべし)その分布の迹は近來に至つてます/\明瞭になつて來た。恐らく戰國の末から前漢までにかけて、即ち支那に於ては周代の文化の系統を受けたる銅鐸と、漢代の文化を代表する鏡鑑とに依つて、其の長い間引續き日本に染み込んで來た支那文化が、部落的生活を營める土着民族をして、段々に統一に赴かしめる樣になつて來て、殊に銅鐸などに於ては古くから支那製のものばかりでなく、支那製に傚うて新たに日本の地方色を加へた所の遺物が多數發見さるゝところから見ると、統一したる國家を形造る前に、已に文化に於いて多少の獨立を示して居るものであつて、それが恐らく王莽時代位に於て、即ち對岸の朝鮮滿洲等の大陸諸民族等も、漢の壓力の衰へたるを機會として、獨立の形を成せる如く、日本の島國に於いても同時に統一したる國家を形造る運命にまで進んだものではなからうかと思はれる。
 そこで後漢の初めたる建武中元二年に支那に交通した統一的國家の首領は即ち委奴國王の封號を受け、漢の印綬を領するに至つたものと思はれる。此の委奴國王は從來は色々に解釋したが、やはり倭國の倭の字と同じ言葉に當てたに相違ないのであつて、昔法隆寺に藏せられ、現今にては御物となつてをる聖徳太子の法華經疏は、其の本文は六朝風の書であつて其の表題は稍時代が遲れてをるとは云ひながら、恐らく白鳳期を降るものではないが、其の表題に大委國上宮太子と書いてをる所を見ると、委と倭と同樣に用ひ、同じく大和の音に當つるものであつて、傳統的に太子時代の前後迄用ひられて居つたことが明白であるから、初めて漢に交通した委奴國なるものも、多分太子時代には大和の朝廷と解釋されてをつたに相違ない。此の最初の解釋を、本國中心主義の國史家に依つて從來故なく曲解されて來てをつたのは自分は斷然不當だと考へる。それから又此の委奴國王の印と云ふのが筑
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