ゝものゝ外、玉石器に於いても漢代に盛であつた玉器の模製と思はるゝもの益多く、殊に又支那地方の生産品で、恐らく日本人の愛好するが爲に特別に製造して輸入したらしく思はるゝ琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]の勾玉等を見、甲冑、馬具、刀劍、沓等の類に至つては、支那に於いても後漢から六朝にかけて最も進歩した工藝になつた鍍金の精巧なるものを多く發見し、是等に附着し又は鏡鑑を包み等した痕迹等から考へて、支那の絹布が盛に輸入せられたことも考へられ、當時恐らく日本人は之を以て和栲と稱して居つたかと思はるゝので、斯の如き美しく綺羅びやかな遺物は、西は九州より東は兩毛奧州の南部に及んで居り、又斯くの如き古墳の決して少なからざる實蹟から考へると、當時日本の生活状態と云ふものは、部曲民、賤民等の如き低級の者は、或は單に荒栲、即ち木の皮の纖維等より作られた今日のアイヌの厚子《アツシ》の如きものを服し、少しく上等な所で麻苧類の服を着て居つたに過ぎないであらうけれども、當時少なくも、殆んど後世の一郡平均に一家か二家までもあつたと思はれる地方貴族等は、皆支那輸入の絹帛を服し、鍍金の甲冑を着し、金覆輪の馬具を置き、刀環の着いた刀劍を帶び、頗る豪奢の生活をして居つたと思はるゝので、勿論大和朝廷等は當時よりして既に高句麗夫餘等の王にも寧ろ過ぎても及ばざることなき立派な生活をして居られたらしく考へられる。日本の古代史の考證家若しくば畫家等が、やゝもすれば古代の帝王其の他の生活を畫くに、無闇に簡朴なる状態に之を表現するけれども、是等は全く誤りであつて、存外支那の王侯と餘り異ならない生活をなし得たものと考へられる。必要上書契こそ自ら使用しないけれども、其等は歸化人の通譯官の家柄の者に任せて居つたので、其の他の點に於いては其の生活に於いても、思想に於いても、やがて聖徳太子の如き偉人を産出すべき素養は久しき以前より段々に具へつゝあつたのであると思ふ。それで後漢以後六朝時代の交通は、書契を自ら司らざる爲に、名分と云ふ觀念が充分に發達しなかつたのであるが、其の他の國内に於ける統治の機關、或は海外貿易を取締るべき機關として歸化人の史等を使用し、それ等が漸次に記録を造りつゝあつたと云ふことは、即ち聖徳太子時代に於て國史編纂をなすべき基礎になつたので、聖徳太子は其の上に外國に對する名分の觀念を明白にして、從來通譯官
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