考へたのでありまして、殊に日本人は兵法と云ふ語を武術の意味に用ゐることになつて、それが得意であつて、大變な流行でありましたが、不思議なことにはそれが逆輸入でもありませんが、日本の武術は倭寇の爲めに支那に傳はり、支那人の當時の著述(武備志の如き)に日本の武術の型やら説明やらを載せるやうになつたのであります。これは倭寇が支那へ押入る時に、その撃劍が支那人を驚かしたので、支那人が日本武術に注意する樣になりました、これは從來永い間日本に支那文化を輸入したが、逆に日本の文化を支那に輸出した所の最初のものであると思ひます。其の外に又鐵砲があります、鐵砲は天文十一年かに葡萄牙人が種子島にもつて來たと云ひますが、日本で一種特別な狙撃の法が發達致しまして、其の狙撃の法は、朝鮮役の時大いに支那人を惱ましました。尤も石火矢や大砲は支那の方が日本人よりも進んで居りましたが、此の小銃で狙撃するのは日本人特有のものでありまして、朝鮮で七八年も永い間戰爭して居る間に、朝鮮人が日本人から傳授されまして、それが後になつて支那人に大變調法がられた事があります。それは清朝の康煕年間、今から二百餘年前に露西亞の有名なペトル大帝の時にシベリヤの、ネルチンスク、アルバジンと云ふ所で、支那の兵隊と衝突した、其の時に朝鮮人が鐵砲を撃つ事が上手だと云ふので、朝鮮人から銃手を呼び出して戰爭させて居ります。それは即ち日本人が鐵砲に就いて特別な發達をしたものが朝鮮に傳はり、それが西洋人と戰爭する樣になつた不思議な因縁であります。それは最初西洋から渡つた武術でありますけれども、日本人が一種の利用法で日本式な小銃の術をやつたのであります。それで京都で握つて居る文化の中には、兵科に關したものはありませんが、それは日本中一般に流布して居つたのであります。
さう云ふ事で、兎に角印度なり支那なり西洋なりに於て文化の要素として數へられて居た條件は、日本の暗黒時代に有ゆる外國から輸入された文化の着物を脱いだ後に、新たに發明され、或は保存されて存して居たのでありますから、日本人は文化的要素を持ち得る條件を備へて居ると云ふ事は申す迄もないのであります。之が即ち日本國民は文化を有し得る國民と云ふ證據にならうと考へられるのであります。
もう少し之は吟味して、材料も十分にして發表すべきでありますけれども、兎に角之に就いて最初の意見の發表を此處でやらせて頂かうと思つて申上げたのであります。
[#地から1字上げ](「日本及日本人」第百八十三號及第百八十四號、昭和四年八月十五日及九月一日發行)
底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
1969(昭和44)年4月10日発行
1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
1930(昭和5)年11月発行
初出:「日本及日本人 第百八十三號、第百八十四號」
1929(昭和4)年8月15日、9月1日
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年12月12日公開
2006年1月20日修正
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