の如き淨土思想の發生ありしことは、當時思想上の覺醒ありし證にして、藤原時代に於ては、この淨土教もなほ貴族的なる趣味に囚はれて山越阿彌陀とか二十五菩薩來迎圖などの如き綺羅びやかなる思想を有せしが、鎌倉初期となるや權力思想の覺醒が地方武士に及べる結果、其時代に興れる宗教思想も簡素なる地方武士の生活に相應せる者となり、こゝに淨土宗・眞宗・日蓮宗を生じ、其創立者はみな一代の天才なり。この間に於て武人にありても、頼朝の如き天才的政治家、義經の如き天才的戰術家を生み、縉紳の間にても、比較的低き階級より藤原信西・大江廣元の如き經綸の材を有する人々出で來りて、階級と思想との動搖一般的に行き亙れり。此の動搖によりて天才の輩出する際に、藝術の方にも天才の出現あり、一般の繪畫彫刻にもみな此傾向ありしなり。此時代は最も日本の特色を發揮したる時代にして、其間に生れたる肖像畫も日本獨得の精采を有し、以て南北朝までは多少階級と思想との動搖ありしに伴ひて繼續せられ、後醍醐天皇の時代の如きは、種々なる方面に古來の因習を脱却して、獨創的の思想を表現せるものを續出したりしなり。されば單に外部の事情より推すも、此の如く藤原末期より南北朝中頃までは天才の出現に都合よき時代なれば、肖像畫も亦自然に其機運に應じて興隆せり。
足利時代は、義滿以後武家の制度確立し來ると同時に動搖減少し、中期以後は應仁文明より引き續ける亂世にして、動搖は激烈なりしも、此時代の亂世は藤原末期とは甚しき相違あり、動搖餘りに大なりしために、最下級のものをして最も勢力あるに至らしむることゝなり、文化とか、修養とかを少しも有せざる階級の跋扈する時代となれり。而して戰爭等に於ても、兵力の多數と、飛道具の如き技巧を要せざる武器とによりて行はれ、しかもそれが統率の才の不充分なる將帥に屬し、多くは群衆心理によりて妄動を續けし時代なり。されば元龜天正頃までは天才の出づべき素地も機會もなく、隨つて藝術も沈滯の氣分を脱せず。大和繪は前代の摸寫に止まり、支那の繪畫を極端に摸倣したりし北宗風の新派あれども、到底繪卷物時代の如き日本獨得の精采を認むべきに非ず。故に其肖像畫の如きも、つまり下級者の成上りの結果、其要求によりて肖像畫を多數に作りしものなれば、注文する方に全く鑑賞力なく、製作者にも藝術の能力を充分に具備せずして、肖像は他の繪畫と一樣に仕入物と墮落せり。藝術が仕入物となる時代はその最も衰退を表す時代なる事は何人も明かに認め得べし。足利時代を以て肖像畫の全盛期と考ふる事は、社會の事情より言ふも、肖像畫の現存せる遺物を鑑賞する上より言ふも、事實とは非常なる相違あり。この故に余は日本の肖像畫の全盛期を、隆信一家が相續して中心となりし鎌倉時代を中心とせる時期に限ると斷定するものなり。
[#ここから1字下げ]
(附記) 支那に於ては、元明以後、肖像畫は益※[#二の字点、1−2−22]形式に流れ、仕女の名匠として明代に仇英の如きあるも、肖像畫に精采を賦與する程の感化を及ぼさず、清朝の禹之鼎の如き、肖像を善くすといはれしも、要するに仇英一派の後勁たるに過ぎず。但だ乾隆嘉慶以後、思想の變化と共に仕女の名家輩出して、遂に改※[#「王+奇」、第3水準1−88−6]の如き新しき生氣ある仕女畫を生ずるに至れるが、此時代さへも肖像畫は遂に復活するに至らざりき。其の畫法の如きも、元代の王繹が寫像訣なる者を出せしより、一定の範疇に陷りて、其の圈外に跳出する者なし。故に元代に於ても、肖像畫にも南畫の風格を移入せし少數の試みありしも、遂に山水畫の如く發展するに至らず、隨つて我國の畫風にも影響することなかりしなり。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ](大正九年十二月史學地理學同攻會講演)
底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
1969(昭和44)年4月10日発行
1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
1930(昭和5)年11月発行
初出:史學地理學同攻會講演
1920(大正9)年12月
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年11月14日公開
2006年1月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全5ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング