お話をして見たいと思つたのであります。
 懷徳堂の大阪町人學者に關する多數の講演の筆記は、實は今頃既に出版に相成る筈でありましたが、その筆記の原稿が東京の本屋で震災の折に燒けてしまつたといふことで、その本が出來ませぬ。併し私のは實は燒けたのではありませぬ。私は懶惰者でその原稿を預かつて置いて訂正しなかつたため、私のは燒けなかつた。其後に私の話が土臺になつて富永仲基の傳が出來て居ります。それは仲基の傳だけ一册に出來て居る譯ではありませぬ。この大阪の北の方に池田町といふ處があります。その池田町の篤志な人々の仕事で、いろ/\の池田町から出た人々の著述等を出版して居ります。さうして「池田人物誌」といふものを出した、その中に富永仲基の傳記があります。實はか程の人を大阪市が横取りされるといふことは勿論心外なことであるべき筈でありますが、横取りする十分な理由……裁判所に出たら負け公事になるかどうかは知りませぬが、相應な縁故があるので、池田町の人が「池田人物誌」の中に富永の事を書きました。富永の弟に荒木蘭皐といふ人がありまして、その人が池田の荒木といふ家に養子に行つたのであります。それで兄弟共に、池田
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