、日本人が學問を研究するに、論理的基礎の上に研究の方法を組立てるといふことをしたのは、富永仲基一人と言つても宜しい位であります。その點に我々非常に敬服するのであります。
佛教といふものは餘程をかしなものであります。をかしいと云つても漠然たる話でありますが、凡そ今日の學術の根本思想として、空間に關する考へ、時間に關する考へといふものがなければ思想の根本が成立ちませぬ。ところがその點に於て佛教といふものは非常に自由であつて、自由といふよりは放漫であります。佛教では過去・現在・未來を三世と申しますが、指を彈く間に三世が起り、芥子粒の上に須彌山が現ずるといふ、時間も空間も滅茶々々にして考へる、それが非常に得意な所であります。それは實際、哲學的の面白い考へもあるに違ひありませぬが、併しさういふもので全體成立つて居る思想は、思想として考へる時は何でもありませぬけれども、それを歴史的に考へる時には非常に困る。佛教全體がさういふ風に空間・時間を殆ど無視したやうな考へから成立つて居りますから、お釋迦さんの話を見ても、過去の事を書いてあるかと思ふと、現在の事、未來の事、一度にいろ/\の話が出て來まして、
前へ
次へ
全42ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング