てありますから、版木を燒棄てたといふのは全く嘘であります。佛教者は妙に人の惡口を言ふ時には、口ぎたない言辭を用ふるものでありまして、たゞ無闇に聲を大きくして人を罵るやうなことをする。これは甚だ感服仕らぬのであります。

       獨創的識見

 この「出定後語」、「翁の文」のえらいことについて、私は色々の處で講演いたしたのでありますが、富永の書のえらいことは、最初は國學者の本居宣長によつて發見されて、「玉勝間」に書かれたのであります。それを見た平田篤胤が、それから本を搜し出して、「出定笑語」といふ本を書きました。我々はそれを讀んでからこの本を知り、更に「出定後語」を讀んだ譯でありますが、その當時から富永が幾らか人々に注意されたものと見えまして、殆ど富永と同時代でありました湯淺常山が「文會雜記」といふ本に富永の本を批評しまして、佛教の事を一通り知るのには「四教儀集解標旨鈔」といふ本があつて、それを讀むと大體佛教の大意は知られるといふ、それで「出定後語」はこれから見出したといふやうなことを或人が言つたといふことを書いて居ります。私もこのことを若い時に見まして、「四教儀集解標旨鈔」を搜して見ましたところが、この「四教儀集解標旨鈔」といふ本の著者は仙臺に居つた梅國といふ坊さんであつて、大變博學な佛教學者でありますけれども、富永が之によつて佛教の事を見出したといふことは全く嘘であります。それは「四教儀集解標旨鈔」を碌に讀まず、「出定後語」も碌に讀まない人の批評であります。存外昔の人の批評といふものも注意しなければならぬものだと、三十年も前のことでありましたが考へたことがあります。
 つまり富永の佛教批評といふものは、全く自分の獨創的な見識、獨創的の天才から出たのであります。何か人に教へられた、人の著述によつて思ひ付いたといふやうな、そんな詰らないものではないのであります。「翁の文」なんぞも、猪飼敬所程の學者も感服したと見えまして、之を讀んで大變えらいといふことを書いて居ります。それで私共長い間この本を搜して居つたところ、偶然昨年の春まで大阪外國語學校の教授をして居つた龜田次郎といふ文學士が發見しました。それを私が到頭版にするやうになつたのであります。この人の學説なり、その傳記なり、又私がそれに關係した由來をお話すると大體こんなことであります。長くばかりなりましたが、どうぞ
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