いと思ふ。懷徳堂の此規約も後にはだん/″\弛んで父子に相續した樣な事もあるが、其の創立當時の五同志の時代には斷じてなかつた。かくの如く懷徳堂の組織は門閥の素地を作るをさけた頗る民衆的解放的のもので、本當の大阪の漢學といふものが大阪に根柢を作つたのは全く此の頃からである。道明寺屋吉左衞門は假名をよく書いたといふことであるから、漢學ばかりでなく書も能くしたらしいが、此の人たちが大阪の學問の根柢を作るに與つて力があつたことは言ふ迄もない。其の吉左衞門の子富永仲基の學問は甚だ解放されたものであつた。三宅石庵の學問は前にも言つた通り朱子でもなく、王陽明でもない、町人には頗る便利な學問であつたが、漢學を眞に批評的に考へるといふ風は町人の學問としては全く此の仲基によつて創められた。
又仲基は佛教に關しても造詣頗る深く著述もある位である。仲基は先づ「説蔽」なる著作に於て儒教を批評し、「出定後語」を著はして佛教の批評をしたが、説蔽を書いたが爲めに其師三宅石庵から破門された。尚仲基は「翁の文」といふ著述に於て國學に關する意見を發表したものと思はれる、不幸にして翁の文は説蔽と共に絶えて今に見當らないが、翁の文の方は心當りを搜索して、發見し得られるものとの、手がかりだけはついて居る。此三著述が揃つたならば一度仲基のお祭でもして見たいと心掛けて居るが、兎も角仲基が町人であつて儒佛國學に通達して居つたことは我々の感嘆おかぬ所である。彼れは其の出定後語に於て、學問も國相應といふことがある、即ち天竺は幻、支那は文、などゝ批評して居るが、甚だ卓見であつて、定めし翁の文には國學に對して卓見を示して居ることだらうと思ふ。而も富永一家は仲基のみでなく、其弟の蘭皐は池田の荒木といふ家に養子に行つたが、當時池田には荻生徂徠の門人田中省吾なるものが隱れて居て、それから教へを受けたらしい。かくの如く富永一家は親子兄弟揃つて學者であつた。出定後語は仲基が黄檗山にカノ藏經の校合を手傳ひに行つて居る間に藏經を讀んだから作れたものであると言ひ傳へられて居るが、昔から僧侶には藏經全部を讀んだ人は決して尠くはない、けれども仲基程に卓見を持つて居た人は一人もないのであるから、藏經を全部讀んだお蔭で出定後語の樣なエライ本が出來たなどゝいふのは、僧侶輩の僻んだ根性から言つたことで採るに足らぬ妄言である。大體印度の佛典といふものは、時間と空間の觀念がない樣な書き振りをしたものであるが、仲基が出定後語に於てそれを歴史に合はす樣に讀んだといふことは、甚だ感服の外ないもので、畢竟仲基は佛教の發展の歴史的研究をした人であるといつてよい。僧侶に言はせると仲基は佛教を惡しざまに言つて居ると解して居るが、仲基の佛學はそんなものではない、佛教の發展の筋道を研究したものであるといふことは、其書を見ても明瞭である。仲基の佛學といつても其研究の筋道は漢學から入つたものであつて、其の學問が大阪の町人の利益にならうとかならぬとかいふことを念頭に置かず、全く時代と歴史とに超越した考へでやつたものである。そして是等の如き學者を生んだことは、大阪の學問が平民の手に移り、解放された結果として偶然に生れたもので、他に深い理由があるわけではないと思ふ。
佛學の方では此の他に難波に居た鐵眼和尚といふのがある、彼の有名な「黄檗の藏經」の出版は全く鐵眼によつて出來たもので、それも大阪の町人の後援があつて初めて完成したものであらうと思ふ。支那では北宋の太祖太宗の時に出來た藏經は官版であつて、散逸して今其全部を見ることが出來ない。先年南禪寺で僅に其の一册が發見された位で殆ど見ることが出來ないが、其の後蘇東坡の頃即ち神宗の頃から以後には、民間の喜捨によつて出版された藏經がある、一つは浙江板といひ、一つは福州板で、東禪院板と開元寺板とが繼續して居る。日本では是とは遲れて藏經が出版されて居る、鎌倉時代の元寇の頃に藏經の出版が企てられたが出來ずに終つたらしく、それから南北朝時代にかけて五部の大乘經が出版された、然しこれとても武家の後援で出來たものであり、又天海僧正が藏經の出版をしたけれども、それも徳川幕府の力で出來たものであつて、支那では既に北宋の終りの頃に民間の力で藏經は出版されたが、日本では鐵眼の黄檗の藏經が民間の力で出版された初めである。而も此の鐵眼の黄檗の藏經は四角い册子の形をして居る、これは明の萬暦年間に出來た藏經と同じ形をして居るものであつて、由來藏經の折本は寺等に保存して置く上にはさしたる不便を感じないが、之を世間に流布する上には折本は嵩張つて不便であるから、是を册子としたことは藏經を世間に流布する上に效果があつたであらう。勿論此の黄檗の鐵眼板は鐵眼存生中に完成したものではあるまいが、此の計畫は鐵眼によつて達成されたものである。か
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