如く讀書家で、又校勘の好きな人であつて、日本などの如く、金があつて、讀めない本を澤山蒐めるのとは違つてゐるので、多少財産のある人でも、全力を擧げて書籍を蒐める結果、晩年には多く貧乏になつて、自然に書籍を賣らねばならなくなる。黄丕烈なども、五十歳以後は大分金に窮したらしく、當時(嘉慶の末頃に)新に起つて來た藏書家、汪士鐘に色々な珍本を賣つたことがその年譜に見えてゐ、後に自分が賣つた本を、汪士鐘から借りて校勘したりなどしてゐる。勿論然うかといつて、古書を蒐めることを絶對に止めてゐるのではないが、一方賣りながら、一方買ひ集めてゐるのである。ごく晩年(道光五年)その六十三歳の時には、自分で本屋を開店してゐるが、到頭この年に亡くなつた。
 前に言つた汪士鐘は、黄丕烈に引續いて有名な藏書家であるが、これも儀禮單疏を刻して世に弘めたので、今日でも吾々は、それがために非常な便宜を得てゐる。此人は元來は呉服屋であつて非常な金持であつたが、此人の藏書も間もなく散じた。この人の藏書の處は、藝芸書舍というたが、その散じた本は、常熟の瞿氏と、聊城の楊氏とに入つたので、此二家は今日支那に現存してゐる二大藏書家といはれてゐる。
 藏書家の中で最も悲慘な運命に出遇つたのは、張金吾といふ人である。此人も乾隆の末年に生れ、道光八年に僅か四十二歳で亡くなつた人であるが、この張氏はその親族に藏書家多く、金吾の從父張海鵬はことに多くの書籍を刻せるを以て有名で、學津討原・墨海金壺、又は借月山房彙鈔などの大部の書籍を出版した人であるが、張金吾はこの一族として、若い時から既にその先代からの藏書に加ふるに、自己の蒐集したものを以てして、八萬餘卷を藏してゐたと言はれ、此人はその夫人も亦學問のある人で、夫婦ともに書を愛し、學問に力め、隨分著述も多いが、悉くは出版されてをらぬ。此人は三十三歳の年に、活字を十萬餘り買入れて、それを以て大部の書籍を出版した。その一つは續資治通鑑長編であつて、これは二年に亙つて五百二十卷の本を二百部印刷したので、今日もその本は歴史家に非常に珍重されてゐる。此人の藏書の處は、愛日精廬と稱し、最初その藏書志を四卷作つたが、後になつてだん/\増補して、愛日精廬藏書志四十卷を作つて、自分の家に藏してゐる書籍の最もよいものを解題したので、これは矢張活字で印刷した。其本が今日に至るまで藏書家に非常に珍重さ
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