抄の研究家、例へば狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]齋の如きは、倭名抄に出て居る織物に對して、新井白石が取つたと同樣な研究方法で注釋を加へる樣になつた。例へば新井白石は綾の字をアヤと讀むことに就て、其の語源が漢の意味であると解釋し、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]齋は倭名抄の羅の字の注釋に於て、今俗に呂と呼ぶものがあるが、これは恐らくは羅の音の轉じたものであらうといふ解釋を下した。斯の如きことは、注意せずして讀み去る時は何でもないことであるが、これ實に織物の研究が歴史的になつて來た一端を示して居るのである。
 近代に於ては、又た支那の新しい織物に對して、日本で之を何と呼ぶべきかといふことに注意した人もある。明代の書籍に天工開物といふのがあるが、それが日本に於て飜刻せられた時に、いろ/\なものゝ名目に、假名でもつて日本名をつけてあることは、餘程細密な注意を爲したものと見える。其の中に、綾の字にリンズと假名をつけ、紬の字にサヤと假名をつけて居るなどは、やはり實物に就いて考へたることであつて、殊に綾をリンズとしたのは、リンズといふ詞が綾の字の支那音から來たことを想はしめる。今日になれば、既に其のリンズ、サヤ、といふものさへも、既に古代織物の一部分に入つてしまつたのであるから、此等當時の必要からつけられた名稱も、今日では歴史的の名稱となつて來た、其の間に織物の名稱の變遷を研究する材料となつて來るのである。
 斯の如く、日本にありて支那織物を研究するには、二重の手數をかける必要があるのであるが、其の代りに、名目の考へ方が歴史的に綿密になつて來る所から、却つて又た、支那人の如く緞子を古代から存在するものと考へ、織成の名稱にも歴史的の變遷あることを忘れる樣な誤りは自然に尠くなるのであるから、案外日本に於て研究するが爲に良好な成績を擧げ得るかも知れない。殊に正倉院其の他の如き古代の寶庫が存在し、宋代以後は茶人に依りて切《きれ》が保存せられたるが爲に、大きな分量のものが尠くても、種類を多く保存して居ることは、支那其の他の原産地にも勝つて居ると思ふ。其の點は古代織物を研究するに就いて、日本が或は最も便利な土地であるかも知れない。此の研究上の便利を、將來大に利用せられんことを希望するのである。
[#地から1字上げ](大正十三年一月十九日古代織物學會講演、同十四年五月雜誌「古代織物」掲載)



底本:「内藤湖南全集 第八卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年8月20日初版第1刷発行
   1976(昭和51)年10月10日初版第2刷発行
底本の親本:「東洋文化史研究」弘文堂
   1936(昭和11)年4月初版発行
初出:「古代織物」
   1925(大正14)年5月
入力:はまなかひとし
校正:土屋隆
2004年11月4日作成
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