支那との間に不即不離の交通を維持して居つたらしい。其の中にも見事なやりかたは太子であつて、後にはこれ程巧妙には出來たことが無い。

       太子の内政上の主義

 次には内政に就いて述べるが、これも太子以前の國内の事情を十分に理解せなければ太子の勝れた點がわかりにくい。太子以前の國情は大化革新の際の詔に見えて居る所で、昔から天皇等の立て給へる子代の民、處々の屯倉、別《わけ》、臣、連、伴造、國造、村主の保てる部曲の民と謂ふ樣なものが全國に充ち滿ちて、朝廷の官吏とも謂ふべき者の治める土地は至つて尠なかつた。殊に豪族は多くの土地を占有し、外交貿易の上にまで歸化人を利用して私の權力を張つて、殆んど朝廷と異ならぬ有樣であつた。然るに聖徳太子は其の時代に於て有名な憲法十七ヶ條を發布した。大體は今日の法文の如くではなく、訓令の體であるけれども、其の中には見逃がし難い立派な主張を顯はしたものがある。即ち第十二條に
[#天から2字下げ]國司國造、勿斂百姓、國非二君、民無兩主、率土兆民、以王爲主、所任官司、皆是王臣、何敢與公、賦斂百姓、
とあるが、これは當時の如き氏族制度時代に於て、即ち各氏族が公民《おほみたから》の外に多くの部曲民を私有して居つた際に、斯の如き憲法に據つて、官司は皆王臣、人民は皆王の人民と謂ふ主義を發表したのは、非常に進歩した考と謂はなければならぬ。國史家の中には、之は公民だけに對したことで、部曲民を含んで居らぬと謂ふ説を唱ふる人もあつて、聖徳太子の主義を強ひて無力に解釋せむとしたりするが、百姓と謂ふことが二度も使つてあつて、其の上に兆民と謂ふ詞も同樣に使ひ、之を皆公民の意味に解釋して國史國造以下あらゆる官司の私有して居つたものも公民と認める意味を表はしたのは、決して狹義に解釋すべきものではない。之は最近の明治維新の版籍奉還と同じ意味を含んで居るものと謂つてよろしいのである。
 尤も聖徳太子の斯の如き主義を思ひつかれたのは、支那の秦漢以來の政治にも通曉して居られた爲でもあらうが、或は又た隋代の政治改革を既に知つて居られて、それに倣はれたものと推測し得ることもある。隋の文帝は魏晉以來の名族專有の政治を改めて郷官を廢し、後の科擧制度の端緒を開いた人であつて、支那の政治の歴史には重大な關係を有つて居る人である。聖徳太子の憲法發布は妹子の遣隋以前に在るけれども、いづれ遣隋以前に隋の國情をば出來るだけ調べられたことであらうから、隋の政治改革をも知つて居られたかも知れぬ。さうすれば此の憲法の趣意は益々以て天皇の大一統主義と解釋すべきものであつて、今日の日本の國體の起源を開いたのは太子であると謂つてよろしい。唯太子は此の主義を實行するに至らずして早世し給ひ、後に三十年程を經て大化の時に主として天智天皇が之を實行せられたので、其の功績は孝徳天智の兩天皇に歸すべきであるけれども、兩天皇の改革は聖徳太子の宏遠な理想規模に據つたことは疑の無いことで、之は單に其の主義から謂ふばかりでなく、大化革新の主なる參謀であつた人々、南淵請安、高向玄理、僧旻など謂ふ人々は、皆聖徳太子が妹子につけて隋に遣はした留學生である。天智天皇にしても藤原鎌足にしても、此等の新智識が無かつたならば、決してあれだけの破天荒の鴻業を爲すことが出來なかつたであらう。して見れば大化革新の功績は其の主要な部分を、やはり聖徳太子に歸せなければならぬ譯である。

       佛教採用の一理由

 聖徳太子が佛教を盛にしたことに就いて、今日では格別に攻撃する人も無くなりつつあるが、一時國學者などは歴史の文を曲解してまでも惡口を謂つたので、譬へば推古天皇の十五年に神祇を祭祀することを怠つてはならぬと謂ふ詔勅が出て居るが、これだけは太子の意志でなくて、推古天皇の思召であると解釋し、太子攝政時代の中の事實にまで斯の如き選り別けをして太子を攻撃した。之は今日の史眼から見れば謂はれの無いことで、太子は佛教を盛にすると共に神祇をも崇敬せしめたに相違無い。それに就いて考ふべきことは當時佛教の如き新しい宗教を取り入れる必要が日本にあつたことである。之は明治の維新でもわかるが、維新以後迷信に關する淫祠を禁じ、或は巫女の職業を禁じた樣なことは、太子の時代に於ては最も必要があつたに違ひない。日本の探湯の刑罰、或は蛇を瓶の中に置いて之を訴訟の兩造者に取らせることなどは隋書にも出て居るくらゐであるから、一般に行はれて居つたに相違ない。かゝる迷信を除く爲には、當時最も合理的に進歩した宗教と謂はれる佛教の如きは極めて必要であつた。佛教は其の後になつて日本の迷信を利用して修驗道やら眞言宗やらが興つたけれども、太子時代に輸入された佛教の極めて理論的であることは、太子の著述なる三經疏に據つても知ることが出來る。

       蘇我氏と太子

 後世の國學者儒者から最も太子を攻撃するのは、馬子の弑逆を處分せなかつたことであるが、是亦時勢をも事情をも考へない議論である。馬子が弑逆を行つたと謂ふことは、今日から見れば明白な事實であつても、當時は下手人は別にあつて、而も馬子はその下手人を自ら殺して居る。形迹が顯はれない上に、當時の太子は廿歳にも達しない少年である。蘇我氏の權勢が絶頂に達して居る歳とて、若し太子が馬子に對して事を擧げて敗れたならば、皇室に如何なる危害が及んだかも知れない。それ故に隱忍して時を待ち、其の勝れた才徳を以て自然に馬子をも威服せしめ、蘇我氏の權力をも壓へる樣にしたことは、日本紀を讀んだだけでも分明である。
 太子の薨去せられて後に、馬子が推古天皇に葛城の縣《あがた》を領地にしたいと請うた時に、天皇は巧妙に之を謝絶せられた。天皇が崩去せられる時に、其の位を太子の御子なる山背大兄王に讓られる御遺言があつたが、これらは太子が推古天皇に生前よく/\進言して置かれたことと想像し得られる、それを馬子の子の蝦夷等が變更して舒明天皇を位に即け奉つた。其の後蝦夷は着々山背大兄王の勢力を削いで、遂に之を弑し奉つたが、其の經過を觀ると太子が生前に蘇我氏の勢力を削ぐ爲に、自分の親信する者をとりたてゝ居られたことがわかる。即ち境部摩理勢などが其の人であつて、此等は太子が在せば其の勢力の許に蘇我氏を壓へつける有力な人物であつた。唯山背大兄王が仁柔で父王の如き材略が無かつたから、此の有力な手足が皆先づ蘇我氏の爲に※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]ぎ取られて、遂に王も禍殃を蒙るに至つたが、しかし其の失敗の迹に據つても太子の深謀遠慮を推測することが出來るので、太子は馬子よりかも年少であり、其の晩年までには必ず豪族を壓へつける希望を達せられる目算であられたに相違ない。其の出來なかつたのは運命であるから致しかたがない。聖徳太子の如き位置にある人の批評をするのには、斯かる前後の情勢を考へなければならぬ。匹夫の任侠の徒が臂を攘げて一己の志を行ふ者と一樣には論ぜられないのである。

 斯の如く考へ來れば、太子は作者として、人格者として、殆んど缺點の無かつた人と謂ふことの出來るくらゐである。近頃になつて太子の一千三百年忌に、いろ/\な企に據つて太子の功徳が頗る表彰されたが、しかし其の間には古史に關する國史家の意見に我々の贊成せられない處も有るので、茲に自分の意見を概略發表して置く次第である。
[#地から1字上げ](大正十三年六月)



底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日発行
   1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年10月17日公開
2006年1月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング