のと見える。兎も角此の一擧で日本の朝廷も自國の位置を自覺し、支那にも之を知らしめたのであるから、當時の世界に於ては國際上の一紀元と謂つてよかつたのである。
これ以後引き續き支那との交通の行はれた時に、太子ぐらゐ巧妙に取り扱つたことも尠ないので、郭務※[#「りっしんべん+宗」、第4水準2−12−49]が唐の高宗から使者として來た際などは、其の取り扱ひ法は接待係に口授せられて之を明かにしなかつた。如何《どう》も劃然と對等のやり法《かた》では無かつたらしく想はれる。しかし歴代の遣唐使が、支那に交通する他の國々とは異つて、一度も上表を持つて行かない。支那からも、他の國々の如く勅書を受取つて歸らない。それで以て國交を維持して、其の使者の座席などは恆に外國の主位を占めたらしく、嘗て新羅の次位に置かれた時に、日本の使者が抗議をして其の位置を換へたと謂ふ故事が遺つて居る。唯唐の玄宗の時に、張九齡が草した『勅日本國王書』と謂ふのがあつて、
[#天から2字下げ]勅日本國王主明樂美御徳
と書き出したのがあるが、此の勅書は日本に到着したか如何かは分明でない。
大體聖徳太子の方針が歴代の國交に遺つて居つて、
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