が顯はれることがある。菟道稚郎子が高麗の上表の無禮を發見した傳説などは其の一例であるが、これらは稀に有つたことで、大體は依然として通譯外交が繼續したのである。
 然るに聖徳太子は支那の學問をも充分に爲して、海外の事情にも通ぜられたのであらう、通譯外交がいたく國家の體面を毀損せることに氣がついて、通譯が獨占して居つた外交の權を朝廷に收められ、隋に使者を遣はす時には歸化人の譯官、史《ふびと》の輩ばかりに委任せず、小野妹子の如き皇別の名家を使者としてやつて居る。それに國書の如きも隋書に載れる
[#天から2字下げ]日出處天子致書日沒處天子無恙云々
の如きは、其の語氣から察するに、恐らく太子自ら筆を執られたものであつたらしく、全然對等の詞を用ひられたので、隋の煬帝の如き、久しく分離した支那を統一したと謂ふ自尊心を持つて居る天子をして、從來に例の無い無禮な國書だと驚かしめたのである。此の時、日本國書の無禮には驚いたが、海外に居る國の王として不思議なものと思つたらしく、妹子の歸るのに添へて裴世清と謂ふ使者を遣はした。其の時妹子にも返翰を渡し、裴世清には別に國書を授けて遣はしたが、妹子は途中で百濟人に
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