し奉つたが、其の經過を觀ると太子が生前に蘇我氏の勢力を削ぐ爲に、自分の親信する者をとりたてゝ居られたことがわかる。即ち境部摩理勢などが其の人であつて、此等は太子が在せば其の勢力の許に蘇我氏を壓へつける有力な人物であつた。唯山背大兄王が仁柔で父王の如き材略が無かつたから、此の有力な手足が皆先づ蘇我氏の爲に※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]ぎ取られて、遂に王も禍殃を蒙るに至つたが、しかし其の失敗の迹に據つても太子の深謀遠慮を推測することが出來るので、太子は馬子よりかも年少であり、其の晩年までには必ず豪族を壓へつける希望を達せられる目算であられたに相違ない。其の出來なかつたのは運命であるから致しかたがない。聖徳太子の如き位置にある人の批評をするのには、斯かる前後の情勢を考へなければならぬ。匹夫の任侠の徒が臂を攘げて一己の志を行ふ者と一樣には論ぜられないのである。
斯の如く考へ來れば、太子は作者として、人格者として、殆んど缺點の無かつた人と謂ふことの出來るくらゐである。近頃になつて太子の一千三百年忌に、いろ/\な企に據つて太子の功徳が頗る表彰されたが、しかし其の間には古史に關す
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