《おほみたから》の外に多くの部曲民を私有して居つた際に、斯の如き憲法に據つて、官司は皆王臣、人民は皆王の人民と謂ふ主義を發表したのは、非常に進歩した考と謂はなければならぬ。國史家の中には、之は公民だけに對したことで、部曲民を含んで居らぬと謂ふ説を唱ふる人もあつて、聖徳太子の主義を強ひて無力に解釋せむとしたりするが、百姓と謂ふことが二度も使つてあつて、其の上に兆民と謂ふ詞も同樣に使ひ、之を皆公民の意味に解釋して國史國造以下あらゆる官司の私有して居つたものも公民と認める意味を表はしたのは、決して狹義に解釋すべきものではない。之は最近の明治維新の版籍奉還と同じ意味を含んで居るものと謂つてよろしいのである。
尤も聖徳太子の斯の如き主義を思ひつかれたのは、支那の秦漢以來の政治にも通曉して居られた爲でもあらうが、或は又た隋代の政治改革を既に知つて居られて、それに倣はれたものと推測し得ることもある。隋の文帝は魏晉以來の名族專有の政治を改めて郷官を廢し、後の科擧制度の端緒を開いた人であつて、支那の政治の歴史には重大な關係を有つて居る人である。聖徳太子の憲法發布は妹子の遣隋以前に在るけれども、いづれ遣
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