れによつて其間に起つた六藝傳記などの發展の次第を考ふる事が出來ようと思ふ。勿論これはどちらかといへば前の時代から順次に發展を考ふるよりも、逆に後から溯つて考ふる方が便宜である。例へば劉向劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]の時代を中心として、此人々の書いた書によつて其以前に入るべき者を詮衡し、其前に在りては史記などの出來た時代を標準として其以前の書を詮衡し、更に呂氏春秋や淮南子の如き雜家の書の出來た時代を標準として其以前の書を詮衡し、斯の如く漸次順を追うて思想の徑路を尋ねて行けば、其以前のことも段々之れによつて跡をつけて行き得る事と思ふ。
 此方法は勿論予も未だ精確に行つてみたことはないので、總べて六藝諸子に對し、此方法に由つて得たる結論を茲に述ぶることは出來ないが、然し其中の或種の者は幾らか斯かる方法を用ゐて判斷した者を問題として提供することが出來ると思ふ。それに就いて予が茲に特に述べてみたいのは尚書の編成に關する事である。大體支那の經學は唐の中頃より自由討究の風起り、宋代に至つては經書の本文にも疑問を挾むことが許さるゝやうになつた。例へば尚書の洪範に對し蘇東坡、余※[#「壽/れっか」、第3水準1−87−65](五)[#(五)は自注]が其錯簡を疑つたことが手始めで、朱子などは最自由なる批評を試みた一人である、其後になつて明の梅※[#「族/鳥」、第4水準2−94−39]、清の閻若※[#「王+據のつくり」、第3水準1−88−32]が僞古文の研究を大成したのも朱子に負ふ所が多いのである。朱子の一派の中でも殊に王柏、金履祥の如きは單に僞古文を疑ふのみならず、今文尚書の脱簡を論語孟子の中より發見することを試みたもので、經書本文の批評は此時代に最盛であつた(六)[#(六)は自注]。然るに清朝になつて考證派の經學盛になり、古文今文の議論の噪しきに拘らず、經書の本文に就いて王柏や金履祥の如く疑問を挾むを非常なる罪惡の如く考ふるやうになり、許鄭の學を奉ずる考證家はなるべく經書の本文には觸れない範圍にて研究せんとする傾向を生じて來た。但だ其後經書の本文にも疑問を挾むやうになつたのは嘉慶道光から起つた公羊學派の人々に之れ有るのみで、此派の人々は存外思ひ切つた疑問を經書の本文や其編成の次第にも挾んでゐる。予が尚書の編成に疑問を挾み臆説を試むるに至つたのも、此等公羊學派の人々に促さ
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