かと言ひ、吾は周に從はんと言ふやうなことが、少くとも孔子に最も近かつた門派の人々が最初に考へ得らるべき思想である。それで堯舜を祖述することは恐らく其以後に出來た思想であつて、是は九流の中の他家と競爭上、儒家が漸次古き時代に標準を置くやうになつた結果でないかと思はれる。即ち初め孔子及び其の門下は周の全盛を理想とし、それより周の統を承けた魯を王とする思想を生じ、次で孔子を素王と推尊する所より殷を尊ぶ思想を生じたものであると思ふ。然るに一方に於て墨家の如きは、その學派が殷の末孫たる宋に起つたに拘らず、理想の人物としては、禹を推尊するやうになつて來たので、堯舜の傳説は孔子以前より全く無かつたといふに非ざるも、堯舜を祖述するといふ思想は、墨家に對して競爭する上から生じたものと思ふ。其後六國の時には更に黄帝、神農を説く學派を生じたので、甫刑の中には既に疑はしけれども、堯舜以前の※[#「端のつくり+頁」、第3水準1−93−93]※[#「王+頁」、第3水準1−93−87]とか黄帝とかの疑を有する者を含んで居り、六藝中比較的晩く發達したと思はるゝ易の繋辭傳にては伏羲まで溯つてゐる。此に由つて觀れば尚書にて周書の前に殷に關する諸篇を置くことは、孔子並に其の門下を去る遠からざる時代に爲されたのであらうが、堯舜や禹に關するものは更に其の以後に附け加へられたものと考へ得られぬことはない。其他六國の末から漢初に至る間には又一種の思想があつて、魏源も指摘せる如く、史記の殷本紀の湯誥に三后は其后皆立つこと有りと言へる如き思想が餘程一般に行はれたものゝやうである。史記の如きは明かに其の思想を以て書かれたもので、陳杞世家の末には人民に功徳の有つた人の末孫が或は帝王となり或は大諸侯となつたのであつて、それには世家言あり本紀言ありと斷つてゐる。それで尚書に在りても史記が本紀若しくは世家に於て表はしたことを其の典謨に於て表はしたゞけの差であつて、兩者は同じ思想の産物たることを明白に認め得られる。されば皐陶謨の如きは其の思想によつて明かに解釋し得るのであつて、皐陶の如く刑罰を掌つた者が重んぜらるゝのは――甫刑で伯夷の如く刑罰を掌つた者を重んずるも同樣であるが――法家名家の起つて以後の晩周の思想たることが知られるのである。要するに皐陶は晩周思想と、特に皐陶が秦の先祖であるといふ傳説から、堯舜と並べられて尚書の主
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