のが出たので、それでその間の變り目に就て人類の知識に大變な衝動を與へたものと考へられます。それでこの召誥の中にはこの夏殷周三代の革命に對することが現はれて居りますです。夏が天命を失つたので殷になり、殷が失つたので周になつて來たといふので、
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我不可不監于有夏。亦不可不監于有殷。
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といふ言葉が出て來て居ります(2)。前代のことに就て、それを手本とし、或は戒めとして考へる上に就て、この三代がだん/\に代つたといふことが、古代の思想上重大なことであつたらしく思はれます。召誥の外に、同じやうな考へは多士篇にも現はれて居ります(3)。それから全體の革命の上の考へではありませんけれども、無逸とか君※[#「※」は「爽」の二つの「爻」に代えて「百」、読みは「せき」、第3水準1−15−74]とかの諸篇の中にも皆歴史的思想といふべきものは多少現はれて來て居りまして、それから多方、前に申しました立政の諸篇にまで、ますますそれが現はれて居ります。一つはこれは、今日尚書を読んで見ますといふと、勝利者である所の周が、失敗者であると言つてもまだ非常な實力を有つて居つた殷人に對して、お前の國の殷も、前代の夏の政が衰へたが爲に取つて代つたのでないか、お前の國が天命を失ふと吾が國が天命を得てそれに代るといふことは當り前のことだ、といふ風に因果を含めて聞かす爲の當時の政策とも見えますけれども、ともかくさういふ風に、三代變化があつたといふことは、それは歴史的思想としては當時餘程重要なことであつたらうと思ひます。それが先づ一つ比較的正確な古い記録の上に現はれる所の歴史的思想であります。
 それから第二に於きましては、古代に於てこの支那の國土を開いた人から、段々その時代迄の世の中の變化、王朝の變化といふことを考へる思想が現はれて來て居ると思ひます。古代に於て國土の開闢者として詩經若しくは書經の中に先づ出て來るのは夏の禹であります。夏の禹に關することは經書の中にも隨分澤山出て居りますが、詩經の大雅の蕩の篇に、これは有名な誰でも知つて居ることで
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殷鑒不遠。在夏后之世。
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といふ言葉が出て居ります。これは僅かに二句にして三代の移り變りを言ひ現はして居るのであります。それから大雅の文王有聲の篇に
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豐水東注。維禹之績。
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といふ言葉が出て居る。つまり禹が水土を平げたといふことの考へは、この頃現はれて居るのであります。又大雅の韓奕の篇に
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奕奕梁山。維禹甸之。
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かういふことが現はれて居ります。それからその外にも、魯頌の※[#「門+必」、読みは「ひ」、第3水準1−93−47]宮編には「奄有下土。※[#「糸+贊」、読みは「さん」、第4水準2−84−63]禹之緒。」とあり、商頌の長發篇には「洪水芒芒。禹敷下土方外。」とあり、同じく商頌の殷武篇には、「天命多辟。設都于禹之績。」とありまして、皆この禹に關したことが現はれて居ります。かういふ詩が一體何時の頃に作られたか、それが分るのも分らないのもありますけれども、殊に商頌などの作られた時代は餘程はつきり致しませんのでありますけれども、今この中で一番作られた時代の分るのは魯頌でありませう。これは主に魯の僖公のことを言つてありますから、それで僖公以後に作られたことは確かでありまして(4)、その作者の名まで傳へられて居る位であります。さうしますと、これらの禹の説話は魯頌以後に作られたのではないと言つてよからうと思ひます、少くとも魯頌の出來る頃以前のものでありませう。その他の大雅の二篇もやはり少くとも西周の末頃から東周の初めの間に出來た詩篇であります。又尚書の中で禹のことを申して居りますのは、虞夏書である所の堯・舜・禹のことを特別に書いた部分、それから又洪範などの如くやはり禹から傳へられたといふことだけ特別に書いたものは別としまして、周人の言葉で禹に關係したものと申しますと、やはり先程申しました立政篇にかういふ文句があります。
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陟禹之迹
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この文句は大體詩經の中にある文句と餘程よく似て居ります。この「迹」の字が詩經の方では「績」の字になつて居りますけれども、ひよつとすると、かういふのは昔同じ音の字であつたので、同じ意味であつたのではないかと思ひます。同じやうな例は又魯頌の中に
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※[#「糸+贊」、読みは「さん」、第4水準2−84−63]禹之緒
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といふ文句がありますが、これが金文の有名な齊侯※[#「溥」の「さんずい」に代えて「かねへん」、読みは「はく」、第3水準1−93−32]と申します鐘の銘の中には
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咸有九州。處禹之堵。
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かう出て居ります。これらは「堵」の字と「緒」の字は本來は同じ字であつたらうかと思ふのであります。さうしますと、つまりこの禹が水土を開いたといふ傳説の盛んに世の中に現はれて來たのは、西周の末から東周の初め頃であらうと考へられます。さうすれば商頌にしても、その作られた時代をこの頃と見る説の方が確からしくなるのであります。
 それからして今申しました齊侯※[#「溥」の「さんずい」に代えて「かねへん」、読みは「はく」、第3水準1−93−32]の中に、金文として禹のことが現はれて居ります。この齊侯※[#「溥」の「さんずい」に代えて「かねへん」、読みは「はく」、第3水準1−93−32]といふ鐘は、古く宋の時の博古圖にも出て居ります。それから南宋の薛尚功の鐘鼎款識にも出て居りまして、これに關する研究は、近代になりましてから孫詒讓が古籀拾遺でやつたのが最も精確とされております。この中に殷の湯が伊尹の輔けによつて夏の桀を討つて、さうして九州をことごとく有して禹の居つた土地に居つたといふことが出て居ります。前に引きましたのはその中の二句であります。これが金文で夏殷間の革命を敍述したものであります。この齊侯※[#「溥」の「さんずい」に代えて「かねへん」、読みは「はく」、第3水準1−93−32]鐘といふものは、大體に於て魯の成公時代のものといふことになつて居りまして、これはその中に書いてあります齊侯といふのは、齊の靈公であるので、その時代が分るのであります。即ち春秋の中頃であつて、大體東周の初めの方の時代に當るのでありますから、魯頌などと大した相違のない時代に出來た金文だといふことになります。これは今日その銅器の實物は傳はつて居りませんけれども、それと同時に作られたらしいやはり齊侯※[#「溥」の「さんずい」に代えて「かねへん」、読みは「はく」、第3水準1−93−32]の一種が今日でも支那に傳はつて、蘇州の潘氏、潘祖蔭の家にあると謂はれて居りますので、大體これは確かなものに違ひないのでありますが、その中にこの禹の説話を書いて居りまして、それから以後の殷周の革命に及んで居りますから、これらは禹を開闢者とした歴史思想の餘程確かに現はれたものであると言つて宜しからうと思ひます。尤もこの禹の傳説は、商の玄鳥墮卵の話、周の姜※[#「女+原」、読みは「げん」、第3水準1−15−90]が巨人の足跡を履む話などの如き原始的トーテミズム的の説話とは異なつて、本來は一種のトーテムであつたとしても、全體の國土開闢者として考へられるまで發達した點は、已に歴史的思想によつて構成されつつあることを示すものであります。
 第三は、私は之を縁起譚と申して居りますが、縁起譚に現はれる所の歴史思想であります。この縁起譚といふものは、何處の國でも古い歴史、物語、記録には皆あるのでありまして、日本などでも、日本紀や何かの古い歴史には縁起譚が非常に多いのです。殊に風土記といふやうなものは、全部縁起譚で出來てゐると言つて宜しいのでありますが、この日本紀などの縁起譚には、よく其の事實を書きまして、これは世の人がかういふ風に傳えてゐる「縁《ことのもと》なり」といふことをよく言つて居ります。例へば日本紀の神代の所に天稚彦のことを書きました所に
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此れ世の人の所謂|反矢《かへしや》畏《い》むべしと云ふ縁《ことのもと》なり
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と書いてあります。それから伊弉諾・伊弉册尊の所でありましたか
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世の人|生《いける》を以て死《まかれるひと》に誤つことを惡む、此れ其の縁《ことのもと》なり
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と書いてあります。さういふことは日本紀に隨分澤山あります。神武天皇紀でも、機密を人に言ひ渡す爲に倒語《さかことば》を使つたといふことがありまして、倒語を用ゐることは始めて茲に起れりといふやうなことを書いてあります。それからこの日本紀の記事の多くは、色々の家柄のことを書きました時に、その家柄の大抵先祖を書くか、或は墓を書くか、それから又古い人のことを書いて、今日の何といふ家はその苗裔だと書くか、何か皆今日現在して居ることから遡つてその因縁を尋ねる話になつて居ります。それが即ち縁起譚でありますが、この縁起譚は支那の古書でも左傳などの中に隨分澤山あります。左傳ばかりでありません、春秋にはその外の公羊傳などにも出て居りますが、それに就て宋の王應麟は困學紀聞に於てその事を注意して居ります。困學紀聞の最終の雜識と申します篇にそのことを澤山擧げて居りまして、これは主に禮記とそれから左傳とに據つて書いたのでありますけれども、左傳に「始」といふ文字を用ゐてあるのは、必ず何か新しき事柄の始まつた時のことを現はしてあるので、この「始」といふことが大切なんで、「始」といふことが皆必ず書いてある。例へば隱公の五年に、祀りをする時の音樂に六※[#「にんべん+(八/月)」、読みは「いつ」、第3水準1−14−20]を用ゐたといふ時に「始用六※[#「にんべん+(八/月)」、読みは「いつ」、第3水準1−14−20]也」と書いてある。かういふ風に始めて何々するといふことは澤山左傳に出て居るが、それは皆「始」といふことが第一大切で、物の變化といふことのこれが證據《しるし》になるから、そこでこの「始」といふ文字を書いてあるのだといふことを困學紀聞の卷の二十に書いて居ります。左傳のみならず、禮記の中にそのことが澤山あることを先づ書いて居りまして、「禮記は禮の變化に於て皆始と曰ふ」といふことを書きまして、さうしてその次にずつとその例を擧げて居ります。主に禮記の檀弓・曾子問・玉藻・雜記・郊特牲、さういふ諸篇の中に、總て禮の變化に就て「何々のことは何々より始まつた」といふ風に皆書いてありますので、それを擧げて居りますが、先づ第一に檀弓に
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孔氏之不喪出母。自子思始也。
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といふことがあるのを擧げ、さういふ例をずつと皆擧げて居ります。これは勿論王應麟が始めて氣が付いたのでなくして、宋の陸佃が氣が付いたのを王應麟がそれを補つたといふことでありますが、ともかく禮の變化といふことに就て「始」といふことを書いてあることが王應麟、その他の人によつて注意されました(5)。王應麟はその外にも困學紀聞の卷の五に「禮記の曾子問篇は變禮に於て講ぜざることなし」といふことを云つて居ります。それから又困學紀聞の卷の六に先程申しましたやはり六※[#「にんべん+(八/月)」、読みは「いつ」、第3水準1−14−20]を用ゐたことでありますけれども、茲は公羊傳を主として書いたやうでありますが、ともかくその六羽を獻ずるといふことと、それから「税[#レ]畝」といふことがありますが、この畝に税するといふこととの起源に皆「初」といふ字を書いてあるといふことを言つて居りまして、それでこの「初」といふことがやはりこの世の中の事柄の變化する大事なことであるといふことに注意しましたのです(6)。其の外にもう一つ王應麟の注意しましたことは――前のは「
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