魏・趙の三家が奪ひまして、さうして小國になつたのでありますが、その魏の國の最初の人の畢萬といふ人が晉に用ゐられる時のやはり占がある。この畢萬といふのが魏といふ土地に封ぜられた。魏といふのは大きいことをあらはす名である、又萬といふのは、ものの數の極度であるから、この家が繁昌するだらうといふことに占つてゐる。この占は、朱子などの考では、やはりこれは魏の國が盛んになつて、韓・趙と三家で晉國を分けてしまつた時に書かれた、かう考へた。さうしますと魏の國の盛んとなつたと申しますと、魏の文侯・武侯・梁の惠王の頃のことでありますから、その頃になつて左傳が書かれた、かういふ風に朱子は考へたのであります。王應麟も之を朱子の語類によつて困學紀聞の中に書いて居りますが、王應麟は朱子程に極端には考へないで、これらの後からの記事は左傳の舊文ではない、もと左傳になかつたのを、後の人が入れたのだといふ風に考へて居ります(9)。ともかく左傳の成立の上に就いての問題は姑く措きまして、子孫が繁昌して居る所から、その起源に遡つて、さうしてその起源に關する記事から書き起すといふやうな考といふものは、これが隨分重大な歴史的思想だと思ひます。日本の神皇正統記などを見ますと、或はその前のものにもありませうが、藤原家といふものは、昔、その先祖天兒屋根命が天照大神を輔け奉つた關係から、末々までもその家が繁昌して、さうして歴代攝政關白の家になるのだといふやうな思想を皆含んで居ります。さういふことはやはり藤原家繁昌の後に出來た思想であつて、その時代思想から遡つて古代のこと迄書かれるやうになつたものと考へますが、さういふ思想が支那に於ては、主として卜筮に關して見はれて來て居りまして、一種の歴史的思想となつたのであります。
それから夢・災祥といふことでもやはり同じことであります。災祥といふのは、大體尚書の洪範に「休徴」「咎徴」といふものがありまして、休《よ》いことの徴、惡いことの徴といふものが現はれて來て、さうしてその結果が出て來るといふことで、洪範の五行傳などはさういふ意味から全部出來上つたものでありますが、洪範五行傳などの五行思想は、極めて何か荒唐不稽なやうなことでありますけれども、その間に天象時令と人事と關係して何かの原因があると、その結果が現はれて來るといふことの意味が含んで居りますので、これが即ち因果思想即ち古代
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