も見られるものとして、南宋時代に通史を紀傳體で書いたものが出來た。鄭樵の通志がそれである。鄭樵は大史論家であつて、歴史は通史でなければならぬ、班固が斷代史を作つたのは歴史の墮落であると云つて之を書いた。紀傳の外に二十略を書き、その中に志の如きものを纏め、年表をも譜と名づけて作つた。彼は史論家としては偉大であるが、通志の出來榮は荷が勝つたと見えて十分でなく、その史論には及ばぬ。通志で最も大切なのは、その序論である。
 かくの如く通史が重んぜられたのは、宋代に於ける史學の復活から來たものと云つてよいが、この時に著しいのは、正統論が新たに盛になつたことである。支那は革命の國であつて、色々天子の姓が易るが、時には一統が出來ずに國が分裂することがあり、又一統しても、秦の始皇とか隋の如く、あまりに年數が短く、その制度文物が支那全體に及ばぬ中に亡びたものがある。かかる朝代をも正統と認むべきか否かといふ論である。これには色々の議論があり、正統は必ずしも續かぬでもよく、正統が斷絶する時代があつてもよいとする論があり、又それでは統にならぬから、どれかを正統にすべきであるとし、例へば三國では何れを正統とすべきかといふ論がやかましい。とにかく前後を通じて一つの通史を考へるときには、かかる論は自然に起る。この正統論に春秋の法を用ひて通鑑に應用したのは朱子の通鑑綱目である。春秋の義法を歴史に應用したのは新五代史が著しいが、これは正統論とは無關係で、部分的に褒貶をしたが、朱子の通鑑綱目は、春秋の眼目たる大一統主義を根本に置いて歴史を書き出さうとした。勿論一字一字の褒貶もあるが、それは大一統主義から出てゐるので、之を通鑑の事實に應用した。司馬光は通鑑を書くのに、褒貶をせずに事實を書けば自然にそれが表はれるとして、左傳の體で書いたが、朱子はそれで滿足せずに、春秋の本文に倣ふまで復古した。これは宋代に於ける歴史の主義の著しい發展である。
 宋代には史學の補助學で發達したものがある。即ち金石學である。金石を歴史の考證に應用することは前からあり、秦權を以て史記の中の文字の誤を考證したことが顏氏家訓に見えてゐる。引きつづいて唐から五代にも漸次かかる傾向があつて、郭忠恕が汗簡を作つた時、金石中の古文を引用したことがある。しかし多くの金石を集めて、それを史料としたのは、宋の歐陽修の集古録に始まると云つてよい。金文の方では、次で考古圖・博古圖などが出來、金石殊に碑文に重きを置いたものには趙明誠の金石録が出來た。南宋になつても金文の方の考證の書は澤山出來た。かかることは經學並びに史學に役立つた。後に清朝に起つた金石學の基礎は、大體ここに開けた。
 その他、史學の進歩に功のあつたのは目録學である。これを學問として取扱つたのは鄭樵である。彼は通志の中に校讐略を書いたが、これは全く目録を學問として扱つたものである。彼の書いた藝文略は、校讐略の原則によつて書いた。目録學は當時直ちに史學に役立つたのではないが、鄭樵がかかる學を起したことが、後になつて目録學を史學に役立たせるに至つた元である。
 これらは宋代の史學の大體であるが、宋末より元初にかけて注目すべきものは王應麟の玉海と馬端臨の文獻通考とである。これらのものは、初めから史學の爲めに書いたものではないが、その結果が史學のために役立つに至つた。元來唐から宋にかけて、天子の爲めに詔勅を書く官があり、内制・外制といふ。これを書く官は多く故事を知る必要がある。それで唐代から多くそれに對する類書が出來てゐる。宋になると之を辭學又は詞學と稱した。玉海は大體この辭學のために出來たのである。王應麟の學問は色々の點で後の清朝の學問の本になつたが、この人は辭學をやるに就て、それが色々の點に及び、目録學に於ても一つの特別な方法を考へた。即ち昔の目録に載つてゐて現存せぬ本に就て、或る點までその本を復活して、その本の大體が分るやうにする方法を考へた。それは多くの古書の中よりその本に關する事柄を抽出し、それによつてその原本の大體を知り得るやうにするものであるが、この方法は清朝の學問に大いなる關係がある。又單に本の内容を窺ふのみならず、その本の出來た由來又はその本に關する昔の批評等を集めることもした。元來の目的は辭學の爲めであつたが、その結果は史學のためになるやうに出來上つたのである。
 文獻通考は王應麟の玉海が詞學のために作られたのに對して、當時の策學のために出來た。策學といふのは、王安石が科擧の法を一變して、試驗の中に論策を書かせることにしてより、古今の政治その他の沿革を知る必要があり、馬端臨の前にも既に策學の爲めに書いた本があり、馬氏のも大體通典を學んでそれが策學に役立つやうに書いたものであるが、その出來榮はやはり單に策學の爲めの目的より遙かによく出來て、通典と共に後の史學に役立ち、一種の文化史のやうなものになつた。この二つは目的は必ずしも史學の爲めでなかつたが、史學にとつては重要な著述となつた。
 宋より元にかけて、一種特別のものが出來た。それはこの時代が支那に於ける地理發見時代とも云ふべき時であつたため、南洋交通に關する本が色々出來た。南宋頃から南洋との貿易が盛んになり、その爲め南洋の風土産物に關する單行の本が澤山出來た。近年有名になつたのは趙汝※[#「二点しんにょう+舌」、第4水準2−89−87]の諸蕃志である。尤もかくの如く南洋に注意するに至つたのは、唐代のアラブ貿易の發達に基く。かくて元の末年には汪大淵の島夷志略があるが、それまでにも色々の著述がある。これは又最近に西洋學者がアラビア貿易のことなどを研究したり、印度洋方面に關する研究の史料として用ひることになり、殊にこれらの著述が目立つて來たのである。
 元代は史學の上に格別著しい變化はない。しかし元代はその領土が大であつたのと同時に、朝廷に於ける編纂にも大部のものが企てられ、その中で經世大典などは八百餘卷に上るものであるが、今日は纏まつて殘つてゐない。制度文物に關する元代のあらゆることを網羅したものであるが、その制度を書くのに、その由來を記し、それに關係した事實までも記してゐる所から、今日僅かに殘存する殘缺でも史料として役立つことが多い。殊に今日の元史も大部分は經世大典によつたらしく思はれる。恐らく元代のことは大體經世大典によつて、今日我々が見ることの出來るやうになつたのであらう。清朝に至つて、元代の古い著述を搜索した時に、現存の經世大典の一部を書き拔いて特別な著述のやうにして世間に出したものが色々あつた位である。その他民間の編纂のものでも、この頃より叢書が盛になつた。これは昔の本をその儘集めて、それを一つの纏まつたものとする方法で、今日存するものでは、宋代の百川學海が最も古いものである。その中に入つてゐるものは各種のものに亙り、必ずしも歴史ばかりではないが、史料となるべきものが多い。宋代の役所の故事などは、百川學海に收められてゐるものからして知り得ることが多い。これは南宋の左圭の作つたものである。元末に至り陶宗儀が輟耕録を書き、元代の故事雜説を集めたが、彼は又説郛といふ大叢書を作つた。現存の説郛はその原本でないといはれ、彼の原本の體裁は之によつては知ることが出來ぬが、ともかく非常に澤山の書を集めて作つたには違ひなく、その中に多くの史料を含むことは、原本でない説郛でさへ、いくらかその中に史料としての著述を見ることを得ることによつても知られる。
 この時、地理に關することでは、南洋に關する外に蒙古並びに西域に關する紀行類が多い。これは勿論元が歐亞にかけて大版圖を有した爲めで、創業の際の征伐に關し、儒者・道士が時の天子に召されて行つた紀行とか色々あつて、それは今日でも蒙古・中央亞細亞に關する有力な史料となつてゐる。
 明になつて元史が出來たが、元史は歴代の正史の中でも最も評判の惡い歴史である。それは餘りに短日月に編纂された爲め、同一人の傳を二度書きなどして粗雜の點があり、又最も體をなさぬのは、文牘をそのまま修正せずに載せたので、文章が惡く、歴史の體をなさぬといふにある。元代は詔勅を蒙古語で出し、それを譯するには、古文を以てせずして、當時の俗語のままに譯するが、これをそのまま歴史に載せてゐることがある。かかることが攻撃されてゐるが、これはこの一代だけで、後にはかかることはなくなつたが、史料をその儘使ふといふことは、却つて唐以前の歴史編纂の原則であつて、偶然にもその原則が復活したと見ればよい。尤も六朝のは四六文であつて、それをその儘歴史に入れても、文は美し過ぎるが粗雜には見えぬ。元代のは史料が俗語である爲めかかる攻撃を受けたのである。大體元史は纏まつた歴史としては體裁をなさぬが、史料として取扱ふには面白い處がある。
 元史は明の初めに出來たが、大體明初には元の風を承けて大部の編纂が流行した。朝廷の編纂として大きなものは永樂大典であつて、これは古今の書籍を網羅した類書であるが、後になつてその中より多くの史料を見出した。清朝になつて學問が盛になり、勅命で作つた四庫全書には、永樂大典より數百部の書を抽出して入れたが、この中には多數の史料を含んでゐる。永樂大典は當時の史學には役立たなかつたが、後世の史學を益することが多かつた。その他にも歴史に關するものでは、歴代名臣奏議の編纂があり、これは非常に大仕掛なもので、當時のみならず、今日でも史料として有益である。
 又明初には宋元以來續いた南洋貿易を更に擴張してアフリカ沿岸まで及ぼしたので、この地方を西洋と云つた。當時の東洋・西洋とは、今の南洋の中を二つに分けた名稱である。この西洋に關する紀行その他の記事の書が大部出來て、それが今日その地方の事實を知る上に役立つ。その記事は明代又は清代では荒唐不稽のやうに考へられてゐた。永樂の時に太監(宦官)の鄭和がその地方へ派遣されたが、そのことが、三保太監下西洋として芝居の題目になり、小説にもなつたが、それを見ると、まるで西遊記などの如く荒唐のことがあるが、その實際の事實は確實なことで、今から十四五年前にセイロン島で鄭和の碑が發見され、それには鄭和が佛堂に金を寄附したことが、漢文とタミール語とアラビア語とで記されて居つて、立派な證據を提供してゐる。
 大體明代の史學は、一つは宋元以來の由來もあるが、明の中頃以前は野史時代と云つてもよく、民間の野史が大いに流行した。その中には眞僞混淆したものがある。明初には色々朝廷に祕密のことがあつた。永樂帝が甥の建文帝に代つて位を簒つたが、建文帝が行方不明であつた爲め、之に關する野史が多く出來た。その外にも、宋以來の官吏の風で、己れの見聞を記録するものが多く、それを材料とした野史がある。それが中葉以後には、野史と朝廷の記録と何れを主として取るかといふ議論が起り、これが支那近代に於ける史學の變化のもととなつた。その頃、王世貞・焦※[#「立+肱のつくり」、第4水準2−83−25]などは野史を信ぜず、朝廷の掌故に重きを置く學風を始めた。勿論野史にも掌故はあるが、それは正確なことよりも面白い話を殘さうとするものであり、掌故は面白くなくても正確なものを殘さうとするのである。この一つの移り變りが支那史學に影響した。新唐書や通鑑が歴史事實を活動させるために材料を野史に取り、それが當時の歴史の編纂の標準となつて以來、その風が盛で、明代の野史はその末流であつて、歴史が多少新聞の如くに流れた傾きがあり、それを王世貞・焦※[#「立+肱のつくり」、第4水準2−83−25]等が一變せしめたのである。これはその後、清朝に及んで明史を編纂する時に、之に關する議論があり、明史は掌故の學を基礎として書いたが、その時の議論は明史稿の凡例の中に出てゐる。殊に建文帝のことが議論の中心となり、明史では建文帝のことについて野史を承認しない。これが已に宋以來の史學に對する一つの變化であるが、その時又特別の事情から、歴史が正確な史料によるべきであるとの議論が出で、史料をその儘載せるべきであるとの説が出た。これは新唐書・舊唐書
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング