にあつたといふことでもなし、又目録を書いた人が見たといふでもなし、唯だ誰の著述があつたといふ事柄によつて書いた。それで新唐書の目録は、本の數の列んで居る所から見ると、都合がよく出來て居りますが、しかし出來上つたものは、それは何れの時に何れの場所にそれがあつたかといふことが確かまらない目録であります。何の證據にもならぬ目録であります。あとの二萬何千卷は、實物を見ずに勝手に加へたものであります。さうして見ると、唯だ唐の時にこんな著述があつたといふ噂の記録であるだけで、果してそれが行はれて居つたかどうかは分りませぬ。これは目録を作る上に於て非常な失敗であります。
 其の後になりますと、益※[#二の字点、1−2−22]さういふ傾きがありますが、尤も其の前にも多少さういふことが無いではありませぬ。阮孝緒といふ學者が作つた目録は、これは官の目録ではありませぬ、私の目録でありますから、其の時の記録に依つて作つたものに過ぎないのでありますが、正史に載せてある目録としては、舊唐書の經籍志までは、兎に角何れかの時に、何れかの處にあつたものに依つて書いたのであります。それは隋書の經籍志でもさうであります。け
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