の論衡に爾雅は五經の訓詁であるといつてゐるのをも排して、爾雅の五經を釋するは十の三四にも及ばず、又專ら五經の爲めに作つたものでもないと言ひ、楚辭、莊子、列子、穆天子傳、管子、呂氏春秋、山海經、尸子、國語等と同じ語のあるのは盡く爾雅がこれらの書から取つたのであると解し、爾雅は本來方言急就の流であるが、説經家が古義を證するに都合がよい所から之を經部に列するに至つたに過ぎないといふやうに批判してゐる。此の批判は頗る極端なもので、提要に爾雅が經書以外の諸書の文を取つたといつてゐる所のものは、實は戰國から漢初の頃までの間に出來た種々の書籍に多く共通して載せられてゐるものであつて、其の何れが前であるとも後であるとも定め難いのであるが、それを偏に諸書が前で爾雅が後であると斷じたのは決して當を得たものと云ふことが出來ない。尤も楚辭の如きは漢初に於て經書と同樣に世に重んぜられたものであらうから、是れは或は經書と同じくそれに對する訓詁とすべき部分を爾雅に含んでゐると見られないこともない。それで平心に考へると勿論從來傳へられてゐる所の爾雅が周公の作で孔子、子夏、叔孫通、梁文の増補を經たといふことは不確實であ
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