]足、爲的※[#「桑+頁」、第3水準1−94−2]、とある。これらは餘り他書に見えない名であるが、釋畜の馬屬の中に含まれてゐる。即ち駮如馬とか、膝上皆白惟※[#「(馬−れんが)/廾」、35−7]とか、(後)左(足)白※[#「(馬−れんが)/廾」、35−7]とか、※[#「馬+勺」、35−7]※[#「桑+頁」、第3水準1−94−2]白顛とかあるので、其中駮は山海經にも出で、※[#「(馬−れんが)/廾」、35−8]は詩にも出て居るが※[#「馬+勺」、35−8]※[#「桑+頁」、第3水準1−94−2]は易のみに限られて居る。[#著者所蔵の「研幾小録」の欄外には、「秦風車鄰有馬白顛傳白顛的※[#「桑+頁」、第3水準1−94−2]也」といふ著者の書き込みがある。]又釋畜に馬八尺爲※[#「馬+戎」、35−9]といへるに對し、郭璞は周禮を引いて之に注してゐるが、周禮には※[#「馬+戎」、35−9]の字が龍になつてゐる。そこで※[#「赤+おおざと」、第3水準1−92−70]懿行の考に依れば、説文※[#「馬+來」、35−10]字下云、馬八尺爲龍、月令駕蒼龍、注馬八尺以上爲龍、淮南時則篇注引周禮、及後漢書注引爾雅、亦倶作龍、郭引作※[#「馬+戎」、35−11]者、欲明此※[#「馬+戎」、35−11]與彼龍二者相當、因改龍爲※[#「馬+戎」、35−11]、非周禮舊文也、といつて居る。この龍も易に最も屡々用ゐられる龍の字の解釋で、説卦傳では震爲龍とある龍のことであるかも知れない。これらから考へてみると、易の説卦傳と爾雅の釋畜篇とは關係があつて、易が經書として認められる頃の時期が、即ち爾雅の編纂の完成せられる頃であつたらうといふことになるのである。若しそれが漢の初め頃とすれば、即ち易の方では田何、爾雅の方では沛郡の梁文の頃となり得るのである。
以上述べた所を總括すると、爾雅の中でも釋詁篇は七十子を距ること遠からざる時代、若しくは七十子の末年に出來、其後戰國の初め頃までの間に種々附益せられたものと考へ得る。釋言篇は七十子の次に來る時代、即ち孔子を素王とする時代に出來て、稷下の學問の盛なりし頃までに附益せられたものである。釋訓篇は尤も多く種々な時代を含んでゐて、釋言篇と大體同じ頃から漢初までに亙つて附益せられて來たらしい。釋親以下釋天に至る各篇は、公羊春秋が發達して禮學の盛に起つた時代、即ち荀
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