中古とは周公のことであるといつてゐる。又※[#「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1−92−63]疏には解家の説く所として先づ春秋元命包の語を擧げ、爾雅は周公の作であるといひ、更に今俗傳ふる所の三篇の爾雅は或は仲尼の増す所とか、或は子夏の益す所とか、或は叔孫通の補ふ所とか、或は沛郡の梁文の著はす所とかいふ諸説を擧げて、先師の口傳には既に正驗無しと言つてゐる。所が後世の學者は之に就いて多く疑問を抱いてゐて、朱子は其の語類に爾雅は傳注を取つて作れるものなるに、後人は却て爾雅を取つて傳注を證すと言つて居り、四庫全書總目提要にも爾雅の古書としての價値をば頗る疑つてゐる。尤も提要には大戴禮の孔子三朝記に孔子が魯の哀公に爾雅を學ばしめたといふことが見えてゐるので、それを以て爾雅の由來の遠い證據としてゐるが、かやうな考證の方法には余は勿論異議がある。又提要に爾雅の出來たのは詩傳を作つた毛亨以後であるとし、大體小學家が舊文を綴輯し、遞に相増益したもので、周公孔子といふは皆依託の詞であると言つてゐるのは然るべきことであるが、揚雄の法言に爾雅を以て孔子の門徒が六藝を解釋したものとしてゐるのも、王充の論衡に爾雅は五經の訓詁であるといつてゐるのをも排して、爾雅の五經を釋するは十の三四にも及ばず、又專ら五經の爲めに作つたものでもないと言ひ、楚辭、莊子、列子、穆天子傳、管子、呂氏春秋、山海經、尸子、國語等と同じ語のあるのは盡く爾雅がこれらの書から取つたのであると解し、爾雅は本來方言急就の流であるが、説經家が古義を證するに都合がよい所から之を經部に列するに至つたに過ぎないといふやうに批判してゐる。此の批判は頗る極端なもので、提要に爾雅が經書以外の諸書の文を取つたといつてゐる所のものは、實は戰國から漢初の頃までの間に出來た種々の書籍に多く共通して載せられてゐるものであつて、其の何れが前であるとも後であるとも定め難いのであるが、それを偏に諸書が前で爾雅が後であると斷じたのは決して當を得たものと云ふことが出來ない。尤も楚辭の如きは漢初に於て經書と同樣に世に重んぜられたものであらうから、是れは或は經書と同じくそれに對する訓詁とすべき部分を爾雅に含んでゐると見られないこともない。それで平心に考へると勿論從來傳へられてゐる所の爾雅が周公の作で孔子、子夏、叔孫通、梁文の増補を經たといふことは不確實であ
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