つて同じものらしく推測せられるからである。若しさうすれば自然他のものも誤つてゐるのではないかと考へられぬことはない。兎も角史記とは傳來の相違といふことだけは疑なき所である。それから又星名が二十八宿整頓してゐないことも淮南子などゝ相違する點であるが、これも二十八宿説が起らぬ前に書かれたものとも考へることが出來るし、或は爾雅の筆者は星暦の專門家でなかつた爲めに疏略に流れたものとも考へることが出來るのである。猶最も著るしい相違のあるのは釋地に見えた九州である。其の書き方が初めの七州だけは禹貢若しくは周禮職方氏などゝ類似してゐるが、末の二州は河の南とか漢の南とかいふ書き方でなく、燕曰幽州、齊曰營州といふ樣な前の分と類しない書き方をしてゐる。齊曰營州といふのが最後に在ることを見ると、矢張り稷下の學問の殘※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]を擧げる輩が書いたらしく思はれるが、體裁の不揃なのは、地理の專家が書いたのでない爲かも知れない。要するに禹貢とか周禮職方氏とかと相違のあるのは、九州に關する傳來の相違であつて、これが殷の制であると郭璞以來解釋してゐるのは朱子の言ふ如く無意味なことである。それから十藪なども大部分は職方氏、呂覽と出入してゐるが、矢張り傳來の異同を見るに足るものである。此の釋地に類似したもので、釋丘、釋山、釋水の三篇があるが、これは殊に晩出の疑があつて、禹貢若しくは山海經、楚辭などの或る部分の如き地理に關する記述が流行り出した頃の作と考へられ、恐らく戰國末期のものらしい。殊に此の三篇の中で釋丘の初めの部分には山海經の解釋と思はれる所がある。釋山の中で五山五嶽に關することが初めと終とに見えてゐて、然かもそれが一致しないなどは、一篇の中に時代若しくは學説の相違が見はれてゐることを示すものであるが、これは恐らく秦漢の際に書かれたものと考へられるのであつて、其の最後の梁山晉望也の句は春秋傳并に國語などゝ關係をもつことを示すものである。然かも梁山が晉の望なる意味が公羊傳にはこれ無く、他の二傳及び國語には共に見えてゐるといふことは、三傳の前後の關係を示すことともなるものである。それから釋水の末の部分で河曲なども矢張り山海經と關係があり、九河は禹貢の解釋とも視るべきものである。これらは山海經と禹貢とが、一は信用すべき經書で、一は信用するに足らぬ小説雜記であるといふ
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