が學變に就て立言する所を聽け。
歐洲思想變遷の史蹟を鑑みるに、羅馬統一以前は、別に是れ一個の世界にして、其の循環に於ても、亦國各々特に一期を始終して、全局の他期と相關かること少ければ、姑らく此に論ぜず。羅馬帝國の統一は、實に基督の教、プラト、アリストートルの學と融和して、思想世界を統一すべき準備たりしが若し、故に神聖帝國が土崩瓦解せし後に至りても、教權の高大は少しくも損傷せずして、新たに生ぜる諸國民の思想を一に繋ぎしこと久しきに渉れり。固より此時に當りて、氣運の然らしむる所、教權の統一も亦政權の統一の若く、專制獨裁の状態たり、專ら人の精神を支配することを勉めずして、驀地に其の外形の儀式文爲を是れ整ふるの弊は免れざる所なりしと雖も、教法の任に當る者が宗教經綸の觀念に神旺して、其職を以て有形無形すべての現象を統紀すべき者と信じ、而して其法を以て此職を盡さしむるに足る者と信ぜしこと、一般の氣風たりしに疑なきなり。故に地球を以て天體の中心とし、人類を以て動植の中心とし、中心を求むるの氣習は、此時代の理論に於て、到る所皆然り。その宗教統一を原因として、他の諸現象を結果とせんは、獨斷に過ぐるの恐れあらん、その共に同一氣運に薫熟されたる同根の枝葉とし、而して宗教を以てその大幹に近き者とせんは、蓋し至當なるを知る。既にして希臘古文學の復活、東洋サラセン智識の輸入あり、氣運漸く斡旋して、自由思想の發達を致すや、宗教革命は先づ人心に大變動を與へて、教權統一の形勢此に破れ、信仰自由の説は、啻に政教の關係より定められたるにあらずして、實は信念分裂の一現象として出でたるのみ。神なるものあり、實に宗教が由て建つ所なり、然るに彼の認むる所は必ずしも此の認むる所ならず、我の神は我の神のみ、汝の神は汝の神のみ、經典が僧侶傳授の解釋に局促せずして、人々自由の理會に放任せられしより、この勢遏むべからざるを致せり。教法の統一、既に得べからず、而して列國割據の勢は、是より先に現はれて今に至りて全く止まず。此に於て諸科の學術も亦派生岐分して、益々以て瑣に渉り微に入る、地球中心の説より、以て諸恆星各中心たるの説に變じ、人類中心の説は廢して、吾人は下りて哺乳動物の一列に就かざるを得ず、君主中心の説は廢して、民權自由の論盛に行はるゝに至る、亦た盡く是れ同一氣運の薫熟する所たり。分業の氣風、日月に發達して、唯一經緯の
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