を見ても如何に材料が貧弱であり、極めて平凡なものであるかといふ事が分ります。
 私はまづ應仁の亂といふものに就て、若い時分に本を讀み、今でも記憶してゐる事に就て述べます。それは其頃有名だつた一條禪閤兼良といふ人の事であります、此人は應仁の亂の時代の人でありまして、其位地は關白にまで上り、さうして其學才は當時の人に拔出て居りました、いや當時のみならず恐らく日本歴史の關白の内で最も學才のあつた一人であると思ひます。此人の書いたものに「日本紀纂疏」と言つて日本紀神代卷の注を漢文で書いた本があります、此人は又私共のやる支那の學問に就ても非常に博學でありましたが、是に依て、其當時まだ日本にも斯ういふ人々の間には漢籍の材料が隨分あつたといふ事が分るのであります。併しさういふ澤山の材料も應仁の亂と共に亡びたと言つていゝのであります、そこが日本の文明を全く新しくした所以であつて、多數の材料が皆なくなつて了つたといふ事は却て結構であつたかも知れませぬ。
 所が今日は此人の「日本紀纂疏」の事をお話するのではありませぬ、極く平凡な本の方をお話するのであります、それは「樵談治要」といふ本でありまして、群書類從
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