しはさんでも差支ない。もしそれがさうでないとすれば、その證據を示す爲めに材料の蒐集法、其の得たる材料等を、或る時期において時々これを開放し、展覽して其の公平な態度を示すべきである。
 自分は單にかういふ事をあり得べき事として想像するのみでない。多少自分は明白な證據を握つて居る。其一二を擧げるならば、一つは久邇宮家に關する事である。故の久邇宮朝彦親王即ち維新前に中川宮と稱せられた方は、孝明天皇の非常に御信任の厚かつた方であつて、京都守護職始末にあらはれて居るところでも、孝明天皇は屡※[#二の字点、「屡※」で「しばしば」、面区点番号1−2−22、161−13]宮に宸翰を賜つて「眞實の連枝と存ずる」と仰せられ、何もかも御相談になつた方で、其の當時からして屡※[#二の字点、「屡※」で「しばしば」、面区点番号1−2−22、161−14]中傷を試みた反對派があつたけれども、天皇は少しも御取上げにならなかつた。この親王が孝明天皇の崩御の後間もなく、一種の陰謀に傷つけられて謀叛の嫌疑といふことで廣島へ遷された。
 これは眞實全く陰謀の毒手にかゝられたのであつて、當時薩長派の政府から親王謀叛の文書を持參して尋問の使者を承はつたものがある。それは故の男爵中島錫胤であつたといふことであるが、親王の前に其の文書を差出した所、親王は少しも自分の知らぬことだと仰せられ、文書には手形が押してあつたので、親王はその手形の上に御自分の手を當てられた、所が手形は親王の手より大きくて少しも合はなかつた。それで使者中島は一言もなく其の儘引き返した。然しそれにもかゝはらず親王謀叛の嫌疑は霽れず、何の理由もなく廣島へ遷されたのであつた。
 其の後赦免と稱して廣島から東京へ歸ることを許された時も、非常に困窮をせられて、山内容堂侯から五百兩の金を借られて、京都へ御着きになつたといふ事である。これ等の事は、自分は後に久邇宮家の傳記を調査した故の内藤恥叟翁其他から親く聽いた所である。久邇宮家では其の傳記を世に發表せられずして其の儘藏されて居るといふことであるが、これ等の事も今日になれば勝利者の態度を保護する爲めに何時迄も眞相を蔽ひ隱すといふことは甚だ不都合であつて、有りの儘の材料を傳へることをはかるべきである。
 自分は又近衞公爵家に藏せられる百四十餘通の孝明天皇の宸翰を拜見したことがある。其の宸翰は誠に君臣といふが
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