なものであると考へなければならぬ。
 以上の如き見地から我維新史を觀察すると、そこにいろ/\な問題が生じて來るであらうと思ふ。今日の維新史料編纂局といふものは如何なる方針で如何なる材料を蒐集してゐるか知らぬが、最初藩閥思想の最も強かつた井上侯が主宰して居り、その委員と稱する人物は多く維新以後の藩閥方であつた人々であるところから見ると、果して勝利者に便宜な方法で作られて居ないといふことを斷言し得るかどうかと思ふ。現に維新前後の殉難者の待遇といふ樣なものも、頗る公平を缺いて居るではないかと思ふ事がある。
 戊辰の歳の革命戰爭で敗けたものは降服した結果となつたから、其時並に其後引續き勝つたものが執つたところの態度に對しては更に何等の苦情をも言はなかつた。其後數度の大赦特赦等があつて賊名などは除かれ、徳川慶喜公さへも後には公爵に列せられたけれども、維新の時に薩長に反對して戰死し、若しくは敗北の責を負うて死を賜つたものなどは、贈位の恩典に浴して居ない。これは勿論取るに足らない順逆論であるけれども、兎に角これと同じ筆法を其の三四年前即ち元治元年に京都に起つた事變に比較して見たならば、甚だ矛盾して居るといふことがわかる。
 元治元年の騷動は長州其他の兵士が禁闕に向つて發砲し、それが會津薩摩の兵に破られ、或は戰死し或は自殺し、其統率者であつた長州三家老は、翌年幕府の長州征伐に對して服罪して自殺した。是等も當時の順逆からいへば明かに賊名を受くべきもので、而もその服罪の仕方は維新の際の東北諸藩の家老等と同樣であるにかゝはらず、これ等の人々は既に贈位の恩典に浴して居る。維新の際勝利者が便宜の爲めにした一時の處置は、別に今日から咎める必要はないけれども、維新以後五十年もたつた今日、當時の騷亂は皆單に意見の相違で、勝つたものも敗けたものも朝廷に對して叛亂を企てる意思がなかつたといふことが明白になつた以上は、其の薩長であると反薩長であるとを問はず同一の待遇を與へるべきであると思ふ。
 是は歴史上の事實の訂正ではないが、歴史上の事實としては今日迄別に官撰の維新史も出來たことはないから、如何なる態度で政府が維新史を取扱ふかといふ事は明かではないが、然し實際世に行はれて居る多數の歴史は多く薩長のために書かれたもので、所謂尊攘派の觀方によつて作られたものである。尤も其の中に故の山川浩氏の書いた「京都守
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