春秋戰國以後下級民衆の發達につれて、民衆を相手とする此の筮法が漸次盛になり、其術を傳ふる者は之に種々故事を附會して以て自己の術を重からしめる爲めに、遂に左傳や國語に見えるが如き幾多の説話を作り出し、時としては爻辭の中にuの高宗とか箕子とか將た文王とかの事をさへ取入れるやうになつたのではあるまいか。朱子の語類には、凡爻中言人者、必是其人嘗占得此卦といひ、帝乙歸妹、箕子明夷、高宗伐鬼方の類を其例として擧げて居るが、少し穿ち過ぎて居るやうである。それから更に進んでは繋辭に見えるが如き數の思想が一方に生じてくると共に陰陽を基礎とした卦を以て其形を表はすことが始まり、遂にそれらが合して一の哲學的基礎を與へるやうになつたのではないかと思ふ。さう考へてくると自然彖傳象傳の如き恐らく最も夙く出來たと思はれる易の理論的説明が既に卦辭爻辭と必ずしも一致しないことも恠しむに足らなくなり、其上文言、繋辭、序卦などの如く、最後に易を纏めたものは呂氏春秋や、左傳、國語の纏まつた時よりも後であつて、尤も本來の易と相距ること遠いものとなつてゐるのであることも明白になると思ふ。
以上予は歐陽修とか伊藤東涯とかの人々が
前へ
次へ
全20ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング