剛草履をはいて歩いていたが、今は年もとった上に何分長途のことであるから、輿に乗せられたのである。
何しても絶代の明師が不測の難に遭《お》うて遠流《おんる》の途に上るのだから、貴賤道俗の前後左右に走り従うもの何千何万ということであった。
それにしても土佐の国までは余りに遠い。月輪禅定の骨折りによって、その知行国である讃岐国《さぬきのくに》へ移されるように漸く嘆願が叶ったのである。月輪殿は歌を詠んで名残《なご》りを惜しまれた。
[#ここから2字下げ]
ふりすててゆくはわかれのはしなれど
ふみわたすべきことをしぞおもふ
[#ここで字下げ終わり]
法然の返辞、
[#ここから2字下げ]
露の身はここかしこにてきえぬとも
こころはおなじ花のうてなぞ
[#ここで字下げ終わり]
鳥羽の南の門から川船に乗って下ることになった。
摂津の国|経《きょう》の島《しま》に着いた。ここは平の清盛が一千部の法華経を石の面に書写して海の底へ沈めたところである。島の老若男女が多く集って、法然に結縁した。
播磨の国高砂の浦へ着いた時も多くの人が集まって来た中に、年七十余りになる老翁が六十余りの老女を連れて、
「わしはこの浦の漁師で子供の時分からすなどりを業とし、朝夕魚貝の命を取って世を渡る家業をしていますが、ものの命を殺す者は地獄に落ちて苦しめられるとのことでございますが、どうしたらそれを遁れられましょう。お救い下さいまし」
と法然の前に手を合せた。法然が、
「それはお前さん達のような商売の者でも南無阿弥陀仏といって念仏をしさえすれば仏様のお願いによって極楽浄土に生れることが出来ますよ」
といって教えた。二人とも涙にむせんでよろこび、その後は昼は浦に出て常の如く漁師をし、夜は家に帰って二人とも声を合せて終夜念仏し、あたりの人も驚く程であったが非常に平和な生涯を終えたということである。
また同じ国の室《むろ》の泊《とまり》についた時に、小舟が一艘《いっそう》法然の船へ近づいて来た。何ものかと思えばこの泊の遊女の船であった。その遊女が云うのに、
「上人のお船だということを承って推参いたしました。世を渡る道というものは様々ありまするうちにも、何の罪で私はこう云う浅ましいなりわいをするような身となったのでございましょう。この罪業重き身がどうして後生を助かることが出来ましょうか」と。法然がそれをあわれんで、
「左様左様、お前さんのようにして世渡りをするということは罪障まことに軽いものではない。祟《たた》りや報いが計り難いことじゃ。若《も》しそれをしないで、世を渡るべき方法があるならば、早速その商売をお捨てなさい。若しその方法もなく、また身命を顧みずしても道に進むという程の勇猛心が起らないならば、ただそのままで一心に念仏をするがよい。阿弥陀様は左様な罪人の為に弘《ひろ》く誓いをおたてになったのだ。――」
ということを懇《ねんごろ》に教えたので、遊女は随喜の涙を流した。法然その態を見て、
「この遊女は信心堅固である。定めてよき往生がとげられるに相違ない」といった。
その後上人が許されて都へ帰る時に訪ねて見ると、この遊女は法然の教えを受けて後はこのあたり近い処の山里に住んで、一心に念仏をし立派な往生を遂げたということを聞いて、法然は、
「そうであろうそうであろう」と云われたとか。
三十五
三月二十六日に讃岐の国|塩飽《しあく》の地頭《じとう》、駿河権守高階保遠《するがごんのかみたかしなやすとお》入道西忍が館に着いた。西忍はその前の晩に満月の光|赫《かがや》いたのが袂に宿ると夢を見てあやしんでいたのに法然が着いたと聞いて、このことだと思い合わせ、薬湯を設け、美膳をととのえ、さまざまにもてなした。ここで法然は念仏往生の道を細かに授け、中にも不軽大士《ふぎょうだいじ》の故事を引いて、如何なることを忍びても、人を勧めて念仏をさせるようにしなさい。敢て人の為ではない。といって教えた。
讃岐の国子松の庄に落ついて、そこの生福寺という寺に住し、そこで教化を試みたが、近国の男女貴賤市の如くに集まって来る。或は今迄の悪業邪慳《あくごうじゃけん》を悔い改め、或は自力難行を捨て念仏に帰するもの甚だ多かった。「辺鄙の処へ移されるのもまた朝恩だ」と喜ばれたのも道理と思われる。[#「思われる。」は底本では「思われる」]この寺の本尊阿弥陀如来の脇士として勢至の像を法然自から作って文を書いて残しておいたということである。
法然が流された後というもの、月輪殿が朝夕の歎き他所《よそ》の見る目も傷わしく、食事も進まず、病気もあぶないことになった。藤中納言光親卿を呼んで、
「法然上人の流罪をお救い申すことが出来ないで、後日を期し、御気色を窺って恩免をお願いして見よ
前へ
次へ
全38ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング