て仕方がないと見たから、そこで法然様が念仏ばかりでいいと仰言《おっしゃ》ったのだ。もう少し智恵のある人間に向っては法然様だって何も念仏に限るとはおっしゃりますまい」
 というのを、為守が聞いて腹を立てて、早速法然へ手紙でそのことの不審を訂《ただ》してやると、法然は、決してそんなことがある筈はない。念仏は一切衆生の為で、無智だの、有智だの、有罪無罪、善人悪人、持戒破戒等の区別があるべきものでないということを懇々と諭されている。
 その後為守は法然の門弟|浄勝房《じょうしょうぼう》、唯願房《ゆいがんぼう》等の坊さん達を関東の方へ頼んで来て、それを先達として不断念仏をはじめ行い出した時、時の征夷将軍(右大臣実朝)に讒言《ざんげん》する者があって、
「津戸為守は、専修念仏を起して聖道の他の諸宗派を謗《そし》っている、不都合千万だ」そこで領守が召して糺問されるというような沙汰《さた》があったから、為守は驚いて、
「もし、そういう事がありましたら、どういう返事をしたらよいものか、むずかしそうな返答の言葉と、たとえの文句などを一つ仮名まじり文に書いて、くわしく教えていただきたい」
 ということを飛脚によって京都の法然の処へ尋ねて来た。そこで法然の返事には矢張り細々とその応答の仕方と浄土の要旨を教え越されている。
 そこで翌年四月二十五日に、信濃前司行光《しなののぜんじゆきみつ》(その時が山城民部大夫)の奉行で、津戸三郎の処へ御教書が下った。為守は、浄勝房、唯願房等の念仏者を連れて鎌倉の法華堂の前の二棟の御所という南向きの広廂《ひろびさし》に参っていると、津戸の郷内へ念仏所を建てて念仏を広めているということにつき、だんだんとお尋ねを蒙ったが、津戸三郎はかねてから法然より貰った手紙を頭に入れて、十分の試験勉強をしていたことだから無事に疑いが晴れ、その同行の念仏者も、専門の上から申開きが立派に立ったので、それからは専修念仏の行に於ては仔細あるべからずとお許しが出た。愈々《いよいよ》念仏の行に怠りがなかったから、建保七年の正月右大臣が逝《な》くなった時に、二位尼の計らいで、遺骨を為守の処へ渡されたので、偏《ひとえ》に右大臣実朝の菩提をとむらったということである。
 為守はこの通り二心なき念仏の信者であったが、同じことならば早く出家の本意をとげたいものだと思ったが、関東でお許しが出ないから
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