ってしまった。
 或時法然が月輪殿へまいった処、熊谷入道がお伴をして行った。法然はこの荒っぽい坂東武者を連れて行き度くはなかったのだけれども、連れて行かなければまた文句が煩さいと思って、何とも云わないで行くと、のさのさ後をついて月輪殿迄やって来て、沓《くつ》ぬぎへ出て、縁に手をかけて寄りかかって待っていた。程なく奥の方で法然の談義の声が、かすかに聞えたから、熊谷入道が大きな声で、
「ああ、ああ、穢土《えど》という処ほどくやしい処はないワイ。関白殿の御殿だとやらで、おれ達はお談義が聞かれないのだ。極楽へ行ったらこんな差別はなかろう」
 といい出したのが、奥の方の関白の耳に入って、
「あれは何者だ」
 ととがめられた。法然が、
「熊谷入道といって、武蔵の国から罷《まか》り上ったくせ者でございますが、伴に推参してやって来ました」
 と答えたので、関白が、優しく、
「召せ」
 といって使をやって熊谷にこちらへ来てお談義を聴いてもよいという旨を伝えると、一言のあいさつも云わず、ずかずかと入り込んで、近く大床にわだかまって、法談を聞いていた熊谷の態度に並居る高貴の面々が耳目を驚かせたということがある。
 この熊谷は念仏往生の信心を堅めた上はどうしても上品上生《じょうぼんじょうしょう》の往生をとげなければおかないといって願をたてた。そして、いつも不背西方《ふはいさいほう》の文を深く信じ、かりそめにも西の方へ背を向けなかった。京から関東へ下る時なども、鞍を逆さに置かせて、馬にも逆さに乗って西へ向いながら東へ下るのであった。そして歌を詠んで云うことには、
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浄土にもがうのものとやさたすらん
  にしにむかひてうしろみせねば
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 すべてが熊谷一流の信心堅固であったから、法然もそれをたのもしく思って、坂東の阿弥陀ほとけという名で呼ばれ、目をかけて教えたり、手紙で細々とさとされたりしていたが、そういう中に於ても持ち前の荒武者は至る処ころがり出して、なにか道中で悪い奴などが出ると或は馬船をかずけたり或はほだしを打ったり、或は縛ったり、或は筒をかけなどしていましめておいた。そういった了見かたで是非ともおれは上品上生の往生をしなければおかぬ、というのが専ら評判になり、月輪関白《つきのわかんぱく》なども、わざわざそのことを法然に尋ねている。
 建永元年
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