た。おそばの者が、
「これは美作《みまさか》の国より出家修業の為に叡山に登るものでございます」と申上げた。摂政殿がそれを見て勢至丸に御礼儀があって、通り過ぎさせられたから、おそばの者が意外の思いをした。摂政殿が後に申されるには、
「今日路次で会った処の子わらべは眼から光りを放っている。如何にもただ者ではないことが分る。そこで礼をしたのじゃ」と云われた。
後に忠通公の息|月輪殿《つきのわどの》が上人に帰依《きえ》深かった因縁もこの物語と思い合わされるものがある。
三
勢至丸は都へ入ってから、まず叔父の観覚得業の手紙を持宝房へ遣《つか》わされると、源光房がその手紙を見て、
「ハテ文殊の像一体とあるが」と不審がると使者が「いえ、文殊菩薩の御像を持参致したわけではござりませぬ。お稚児《ちご》さんを一人連れてまいったのでございます」
そこで源光は早くも、この小児の聡明なることを察して迎えを遣わし、同じ月の十五日に叡山に登った。
叡山の持宝房についたから試みにまず四教義《しきょうぎ》を授けて見ると籤《せん》をさして質問をする。疑う処皆古来の学者たちの論議した処と同じである。まことにただ人ではないと皆が申し合った。この子の器量が同輩に過ぎたる名誉を知って源光は「おれは魯鈍の浅才であるから、この子の教育の任に堪えぬ。然るべき碩学《せきがく》につけてこの宗の奥義を究めさせなければならぬ」といって久安三年四月の八日にこの子を引連れて功徳院肥後|阿闍梨《あじゃり》皇円の許《もと》に入室させた。
この皇円阿闍梨は、粟田関白四代後の三河権守重兼が嫡男であって、少納言資隆|朝臣《あそん》の長兄にあたり、椙生《すぐう》の皇覚|法橋《ほっきょう》の弟であって、当時の叡山の雄才と云われた人である。この皇円阿闍梨はこんど連れてこられた少年の聡敏なることを聞いて驚いて云う。
「さる夜の夢に満月が室に入ると見た。今この法器にあうべき前兆であったわい」
といって悦《よろこ》ばれた。
同じき年の十一月の八日、勢至丸は黒髪を剃《そ》り落し法衣を著し、戒壇院《かいだんいん》で大乗戒を承けた。
或時のこと師範の阿闍梨に向って申されるには、
「既に出家の本意《ほい》を遂げて了いました。今は山林の中へ遁れようと思います」
それを聞いて師の阿闍梨が云われるには、
「仮令《たとい》隠遁の
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