月の一日から法然は草庵にとじ籠って何れから招かるるも出て行かなかった。その時、兼実は藤右衛門尉重経《とううえもんのじょうしげつね》を使として法然に、
「浄土の法門年頃お教えを承りましたが、不敏にしてまだまだ心腑に収め難いものが多くございます。冀《こいねがわ》くはその要領を文にして記し賜りたい。その望みが叶えば御面談の代りにもなり、且《かつ》は後世への記念にも備えることが出来まする」
 と申越された。そこで法然が、この兼実の請を容れて弟子の安楽房に筆を執らせて著作をしたのが有名な「撰択集《せんじゃくしゅう》」である。
 この時の執筆者安楽房というのは外記入道師秀という者の子であるがこの時その撰択集の第三章を筆写せしめられた時、つぶやいて云うには、
「わたしが生《なま》じい字を書く人間でさえなければこう云う役廻りは仰せつけられなかっただろうに」
 といったのを法然が聞いて、「これは増長している。※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢な心が深いから悪道に落ちる奴だ」といって安楽房を退けてその後は真観房感西に書かせることにした。而《しか》してこの安楽房は、後年後宮女房のことから自分は斬罪に会い、師の法然を遠流《おんる》にするような事態を惹《ひ》き起した人物である。
 兼実は上述の如く法然が来る毎に降《くだ》り迎えをされる。摂政関白が既にこの通りだから、その以下の公家殿上人の降り騒がれることは容易のものではない。法然はそれを煩《うる》さいことに思って九条殿下へ(月輪兼実)参らないように、草庵にとじ籠《こも》りということを名にして、九条殿をはじめ、何処へも出て歩くことをしなかった。それを兼実は頻りに歎いて、「それでは仮令《たとい》房籠りの折と雖もわしの身に異例でもあるような時には見舞いに来て下さるだろうな」
 上人も左様な時には仔細に及ばないと申されたのを言質として、いつも病気とか、異例とかいって法然の処へ招請の使を寄せられる。法然も辞退し難くて月輪殿を訪ねる。それを門弟の正行房という者が心の中で思うよう、
「お上人も房籠りというて他所《よそ》へはおいでにならないで、九条殿へだけおいでになるということは、人によっては上人程のお方でも貴顕へは諂《へつら》っておいでになると謗《そし》る者がないとは限りません。おいでになるならば貴賤上下隔てなくおいでになるがよろしい。
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