は固よりその次席である。そこで法然は礼盤《らいばん》にのぼりて啓白、その式を行われたのである。
九月四日に観性法橋から進呈せられた御料紙《ごりょうし》をむかえらるる式がある。これも法然が申し行われる。同じき八日写経の水を迎えられること、同十三日御経奉納の式がある。これ皆国家の大事と同じ様な行幸があり、儀式がある。そのはなばなしい一代の盛儀に特に隠遁の法然を召し出して先達とせられたこと、帝王|帰依《きえ》の致す処とは云え、個人の徳望の威力古今無比といわねばならぬ。
十
のみならず高倉院御在位の時、承安五年春のこと、勅請があって、主上に一乗円戒を法然上人が授け奉った、という特例がある。これは清和天皇が貞観《じょうがん》年中に慈覚大師《じかくだいし》を紫宸殿《ししんでん》に請じて天皇、皇后共に円戒を受けられたという前例がある。法然上人は法統から云えば慈覚大師より九代の法孫に当る。法然一平僧の身を以てこの重大事の勅命を受け、慈覚以来の古《いにし》えを起したということは無上の破格であった。
又後白河法皇の勅請によって、法然は法住寺の御所に参り、一乗円戒を法皇に授け奉った。その時には山門寺門の学者達を召されて、番々に「往生要集」を講じ、各々の所存を述べさせられたが、法然も仰せに従って披講《ひこう》をした。その時「往生極楽の教行《きょうぎょう》は濁世《じょくせ》末代の目足なり。道俗貴賤、誰れか帰せざらんもの」と読み上げただけで初めて聞かれたように貴い響があって胆に銘じ法皇の感涙が止まらなかったとのことである。その時御信仰の余り右京権大夫隆信朝臣に仰せつけられて法然の真影を図して蓮華王院の宝蔵におさめられたそうである。先きの世にも例の無いことだと云われる。
斯様に後白河法皇は法然に帰依し、百万遍の苦行を二百|余箇度《よかど》まで功を積まれたということである。建久三年正月五日から法皇が御悩みあって、日毎に重らせられる。そこで御善知識の為めに法然に仰せが降った。二月二十六日に法然は法皇の御所に参じて、御戒を奉られ御往生の儀式を定め、重ねて念仏のことを申上げられ、それから三月の十三日に御臨終正念にして称名を相続しながら御端坐のままで往生を遂げさせられた。御年六十六。
法皇が崩御遊ばされた後御菩提の為めに建久三年秋の頃、大和の前司|親盛《ちかもり》入道が、八坂の
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