いうものを殺した。その罪に因《よ》って美作の国へ流されたのである。そしてこの国の久米の押領使神戸の大夫漆の元国の娘と結婚して男の子を生ませた。元国には男の子がなかったから、二人の間に出来た外孫をもって自分の子としてその後を嗣《つ》がせる時に源の姓を改めて漆の盛行と名付けた。盛行の子が重俊、重俊の子が国弘、国弘の子が時国という順である。
こういう家柄であったから、時国も田舎に在って自然自分の本性に慢心の心があり稲岡の庄の預り処、明石の源内武者定明を侮ってその政治に従わなかった。この明石の源内武者定明という者は、伯耆守《ほうきのかみ》源長明という者の嫡男で堀川院御在位の時の滝口《たきぐち》の武者であったが、ここの預り処へ廻されて来たものである。時国の方は自分の家柄は父の系図はよし、母方は土着の勢力家であるし、上役とはいえ、明石の源内武者の摂度に従わず面会にも行かなかったから、上役たる定明が深くこれを憎み怨《うら》んでいた。
この怨みが積って保延《ほうえん》七年の二月定明は時国を夜討ちにした。その時に勢至丸は九つであった。隠れて物の隙から見ていると敵の定明が庭に矢をはいで立っていたから勢至丸は小さい矢をもって定明を射た。それが定明の眼の間に当った。定明はそのままこの所を逃げ延びて了った。
父の時国は夜討ちの為に深い傷をうけて死に瀕《ひん》する時、勢至丸に向って云うことには、
お前はこのことから会稽の恥をおもい敵人を怨むようなことがあってはならぬ。これというのも偏《ひとえ》に先きの世の宿業《しゅくごう》である。若し怨恨を結ぶ時にはそのあだ[#「あだ」に傍点]というものは幾世かけて尽きるということのないものだ。そこでお前は早く俗を遁《のが》れ、家を出でて我が菩提《ぼだい》をとむらい、自らの解脱《げだつ》を求めるがよい。
といって端座して西に向い合掌念仏して眠るが如く息が絶えた。
二
一方勢至丸の父の仇定明は、ここを遁《に》げてから隠居して罪を悔い念仏往生の望みを遂げ、その子孫は皆法然上人の余流を受けて浄土門に帰したということである。
さて、この勢至丸の生国に菩提寺という山寺があった。この寺の院主|観覚得業《かんがくとくごう》という人は延暦寺に学んだ者であるが、そこでは望みが遂げ難いと思って、南都に移って、法相《ほっそう》を学んで卒業した。ひさし
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