法橋のお弟子であるのに」と云われた。
法然上人が諸宗に通達しているということが、人口に普《あまね》くなった上右の慶雅法橋が御室(鳥羽院第五の皇子|覚性法親王《かくしょうほうしんのう》)の御前で、
「拙僧も自門他門多くの学生達《がくしょうたち》に会いましたけれども、この法然房のように物を申す僧には会ったことがござりませぬ」と称美したのを聞かれて御室から法然を招かれ、
「天台宗に就て学びたいことがある」と仰せられたが、法然はそれを辞退して、
「天台宗は昔は型の如く伝受いたしましたけれども、今はただ念仏になって天台宗は廃学いたしました。山門には澄憲《ちょうけん》、三井には道顕《どうげん》などの名匠が居りますから、あの人達をお召しになってお聴き遊ばすが如何《いかが》かと存じまする」と申し上げると、
「それ等はみんな最早聴いている処であるから辞退の申訳にはならぬ」と重ねて頻《しき》りに仰せがあったけれども、法然は尚堅く辞退する。
「左様ならば念仏のことを学問したい。その序《ついで》に少々談義をしたいこともある」と仰せられたけれども、自然に延び延びになって月日を送られていたが、後白河法皇御最期の時、法然が御善知識に召されて参った時に御室も御参会があって、その時に又右の話が出て、
「こうして在京の間に望みを叶えて貰えまいか」と云われた。
法然は、
「斯様《かよう》な折は物事忙わしくもあり、又お召の時も御座りましょうから、中間でまとまりのないことを申上げるも不本意でござりまする故そのうち静かに参上仕りましょう」とてそのついでも空しく止んで了った。その後幾ばくもなくて御室もお亡くなりになり、終《つい》にその望みは遂げられずに了ったが、斯くばかり懇切に志を尽されたのも法然が諸宗に達していたという為であった。
五
法然の言葉に、
「学問というものは創見ということが極めて大事である。師匠の説を伝習するのは容易《たやす》いことである。そこでわしは諸宗を学ぶのに諸宗自らの章疏《しょうしょ》を見て心得た」ということを云っている。詰《つま》り法然のはその道のその時代の学者に就て習い覚えた学問ではなくて、その学者を超越してもっと溯《さかのぼ》った源頭から自から読み得た処の学問であった。そこでその宗、その道の権威者に会うても更に恐るる処がなく、名目だけは彼等から聴き伝えても、そ
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